郡山~白石

2018年4月 9日  郡山~安積山~二本松(~福島)
2018年4月10日 福島~花見山~信夫文知摺~医王寺~飯坂
2018年4月11日 桑折~国見峠~馬牛沼~田村神社(甲冑堂)~白石

元禄2年(1689)5月1日(陽暦6月17日)、芭蕉は郡山を日の出とともに出立し、花かつみを探し求めて歌枕の地安積山に向かった。そこから二本松の観世寺・黒塚に立ち寄り、福島まで行って宿をとった。翌5月2日、歌枕の文知摺石のある信夫の里から医王寺にまわり、飯坂温泉に泊まる。5月3日は体調不良のため馬を借りて飯坂から桑折に行き、伊達の大木戸(国見峠)を越え、田村神社(甲冑堂)に立ち寄って白石に至った。

私の今回の旅は、初日は郡山から安積山、安達ヶ原の黒塚へと芭蕉が歩いた同じ道を辿るが、郡山から福島は12里ほどにもなるため、黒塚の先は行けるところまで行ったら、電車で宿のある福島へ向かう。二日目は、まずかねてから行ってみたいと思っていた花見山に寄り道する。そこからは、芭蕉が歩いたのとほぼ同じルートで信夫文知摺に行き、月の輪大橋を経て医王寺、飯坂温泉に寄ったら、前日と同じ福島の宿に戻る。三日目は、桑折まで電車で行き、そこから国見峠を経て田村神社を訪ね、白石まで行って帰途に就く予定である。芭蕉の旅を辿りつつ、時節柄、桜や桃の花が楽しみとなる旅になる。
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郡山~日和田・安積山
郡山駅から駅前大通を少し行った大町交差点で旧街道に入ると、少し先の分岐に大町道標が立っている。前回、郡山にたどり着いた際、ここまでは来ていた。道標の一つは「右奥州街道 左会津街道」、もう一つは「従是三春道」と刻まれている。現在、奥州街道(陸羽街道)は郡山から二本松まで県道355号線(須賀川・二本松線)となっている。また、逢瀬川をわたった少し先で街道は三春に通ずる三春街道(国道288号)と交差するが、往時の三春道は、逢瀬川手前で県道57号線に入り、阿久津を経て三春に行くほうが主要道だったようである。
その逢瀬川は、どこにもあるようなのどかな風情の普通の川だが、その名が「逢瀬」であるからか古来から歌枕で知られている。


旧福原宿に入り、豊景神社、本栖寺を過ぎて行くと、街道が緩いカーブを描いている宝沢沼と照内川周辺は、桜がちょうど見ごろであった。


その先の緩い坂(普賢坂)を上って行くと、街道沿いに松並木が見られるようになる。奥州街道松並木と呼ばれる赤松の並木がところどころに残っていて、旧街道の趣が感じられる。


やがて東北本線を陸橋で越え、藤田川を渡って旧日和田宿に入ると、高村光太郎の智恵子抄で有名になった安達太良山が街道前方に見えてくる。


この藤田川の少し上流の喜久田あたりは、桜の名所として知られている(と、前回、須賀川で教えてもらっていた)。
旧日和田宿に入り、佐世姫と霊蛇にまつわる言伝えがある蛇骨地蔵堂や笠松が有名な西方寺の前を過ぎてしばらくすると、いよいよ桜咲く安積山が見えてくる。

安積山
安積山は、万葉集のなかの采女の歌、
 ー 安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに ー
等、数々の古歌などに詠まれる歌枕として知られていた。
また、古今和歌集にある詠み人しらずの歌、
 ー みちのくの あさかの沼の 花かつみ かつみる人に 恋やわたらん ー
や、平安中期の歌人藤原実方のかつみに関わる故事もあって、花かつみに強く関心を持っていた芭蕉は、花かつみを日が暮れかかるまで尋ね回ったという。奥の細道本文では次のように記している。『等躬が宅を出て五里斗(ばかり)、檜皮(ひわだ)の宿を離れてあさか山有。路より近し。このあたり沼多し。かつみ刈る頃もやや近うなれば、いづれの草を花かつみとは云うぞと、人々に尋ね侍れども更に知る人なし。・・・・』
現在、この一帯は安積山公園として整備されており、見事な枝ぶりの松のまにまに桜が咲き、少し上った頂上には東屋もあって、旅の途中で休憩するにはもってこいの心地よいところであった。

 


公園の北側には芭蕉の小径が作られており、この少し奥に山ノ井の清水がある。

安積山~二本松
安積山を過ぎると街道の周りは田園風景が広がり、日和田手前から断続的に続いていた松並木はまだしばらく続いている。
やがて、高倉城跡入口の標識が立つところで、街道右手奥に山清寺の独特な山門が見える。この寺の後方に、二本松畠山氏の支城である高倉城があった。

五百川を渡ってしばらく進むと旧本宮宿に入る。
郡山から福島までは11の宿駅があったが、このうち本陣、脇本陣のあった宿場は本宮、二本松、八丁目の三つである。本宮宿は南町と北町から構成されるが、南町の観音堂あたりは阿武隈川に最も近接している。


観音堂のすぐ先の薬師堂の敷地に、戊辰戦争戦死者の供養碑が建っている。本宮周辺はその地政学的位置から、両軍のはげしい攻防戦がくりひろげられた。


しばらく先の杉田宿を過ぎると、やがて二本松に至る。
二本松は、室町時代に畠山氏が領主となり二本松城を築城、その後、伊達・蒲生・上杉と領主が替わり、江戸時代には二本松藩の城下町となって丹羽氏が領主となった。白河から入封した初代藩主丹羽光重は、城郭を拡張整備し、春には桜が霞のように城を覆ったことから霞ヶ城とも呼ばれる。
だが、戊辰戦争では、西軍との徹底抗戦で城内、家中屋敷、宿場のすべてが灰燼に帰した。城址公園には、壮絶な戦いを物語る跡が数々残されている。今回は時間がないため先を急ぐが、あらためて一度は訪れてみたい。
街道沿いの宿場中心部に、二本松総鎮守で丹羽氏の守護神となっていた二本松神社が鎮座している。


二本松の旧奥州街道は、若宮、松岡と進み、亀谷坂の急な登り坂を経て竹田に抜けていた。
亀谷坂の頂上にある観音堂境内には、多数の石仏、石塔群の中に芭蕉句碑があるが、 次に向かう安達ヶ原は、ここから奥州街道を外れて県道をそのまま進んで行く。
しばらく行くと国道4号に合流し、少し先で長大な安達ヶ橋を渡る。この橋は国道、東北本線、更には阿武隈川を一気に渡って対岸につながっている。

安達ヶ原
橋を渡るとすぐ左手に鬼婆伝説で有名な観世寺が見える。「安達が原は、元は荒涼たる原野で、ここに鬼婆が仮の住処を作って旅人を泊まらせては妊婦の通るのを待っていた・・・」、という伝説はやがて謡曲「安達ヶ原」となり、黒塚の名も世に知られるようになった。
国指定名勝で奥の細道風景地にもなっているところだが、伝説は何ともおどろおどろしい。

境内に入ると、すぐ右側に鬼婆石像が鎮座し、左側にはいくつもの巨岩が所狭しと横たわり、案内板に従い細道を行くと、夜泣き石や鬼婆が住んだ岩屋・笠石などがある。

 


観世寺を出てすぐ右手の阿武隈川河川敷には、大きな木が立つ黒塚がある。ここには黒塚の碑とともに、平兼盛の歌碑が置かれている。
  - みちのくの 安達ケ原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか –


芭蕉は、わざわざ奥州街道を逸れ、阿武隈川を越えてまで黒塚に立ち寄ったのだが、奥の細道本文には、『二本松より右に切れて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。』と記されているのみである。

観世寺の裏手には、安達ヶ原ふるさと村公園があり、子供向けの施設などが整備されていて広々とした明るい雰囲気なのだが、黒塚のおどろおどろしい話とはやや不釣り合いな感がした。

安達ヶ原~福島
黒塚を訪ねた後、再び安達ヶ橋を渡って国道4号に戻ると、すぐに県道114号線が左に分かれ、しばらく行くと安達になる。
芭蕉は郡山の宿を日の出とともに出立して、福島まで一気に歩ききっているが、健脚芭蕉の真似はとうてい無理なので、私は安達で電車に乗り福島に向かった。

福島駅を出ると、街並みが整備されており、人通りも多くて賑わっている。まずは予約していたホテルにチェックインし、夕食に出かけたが、今朝4時に起きてはるばるここまで来たため、ホテルに戻ったとたんに眠りについた。
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翌朝、いつものように朝食前に近くの散歩に出た。宿泊ホテルは、旧奥州街道沿いにあり、福島城跡にある県庁の近くに位置している。

福島城址界隈
現在の福島県庁のところに、かつては福島城があった。戦国時代までは、杉目城(杉妻城)あるいは大仏城とよばれていたが、紅葉山公園にある大佛城跡出土宝塔がその由緒を示している。
豊臣秀吉の時代に、会津藩の蒲生氏郷から信夫5万石を任された木村吉清は文禄2年(1593)ころ大森城から杉目城に移り、福島城と改称した。その後、上杉、本多、堀田と領主が変わったが、元禄15年(1702)、板倉氏が信濃から入り、福島城の整備が行われた。阿武隈川のすぐ脇に福島板倉家の藩祖である板倉重昌を祀った板倉神社があり、紅葉山庭園内には杉妻(すぎのめ)稲荷神社が鎮座している。


福島は城下町であるとともに、阿武隈川の水運の中継地でもあり、城の南東側の阿武隈川一帯には荷物の積み下ろしをする河岸(かし)があった。この一帯には、かつては幕府の年貢米を貯蔵する御城米蔵や福島藩・米沢藩の米蔵などがあり、現在、御倉町と呼ばれているこの地域には旧日本銀行福島支店支店長の役宅だった御蔵邸が残されている。残念ながら早朝の為、中には入れなかったが、近年復元された米蔵が見えた。御倉邸裏手にまわると福島河岸の名残の船着場があった。


信夫橋を渡ってから柳町、荒町、中町と続く旧奥州街道沿いには、往時から続いている商家や旅館が残っており、また寺町一帯には多くの寺が集められている。散策の途中でたまたま見かけた誓願寺境内の桜が見事であった。


旧街道が右折する本町交差点には、福島宿本陣(黒澤六郎兵衛宅)、脇本陣(寺島源吉宅、安斉一郎右衛門宅)があった。旧街道は、この先、上町、北町へと続く。
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芭蕉は翌5月2日、福島の宿を出て歌枕の信夫文知摺(しのぶもぢずり)石を訪ねた。そこから義経ゆかりの医王寺を訪れ、近くの飯坂の湯宿に泊まった。
私も、この日は芭蕉と同じような道筋を辿ることにしているが、その前に花の里として有名な花見山を訪れたいと思っている。
福島城址周辺を散策後、ホテルに戻って朝食を摂り、花見山行きのバスに乗るため、福島駅前に行く。福島駅前広場には、芭蕉と曾良の旅姿像が建っていた。

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花見山
駅からバスで20分ほどの花見山は、写真家故秋山庄太郎が「福島に桃源郷あり」と絶賛したところで、数種類のサクラの他様々な花々が咲き乱れる花の名所である。
花木生産農家の方が長い年月をかけて雑木林を開墾し、花木を植えたのが始まりということで、山々一帯にきれいに咲く花を一般の人たちにも開放するようにしたというものである。
地元の人から見ると一番いい時期をすでに過ぎたということらしいが、それでも実際訪れてみたら、評判通り桃源郷と呼ぶにふさわしい素晴らしいところであった。

 

 

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信夫文知摺(しのぶもぢずり)石へ
この日は朝から青空が広がり、前日のような風もなく文句なしのいい天気である。朝から素晴らしい景色を堪能し、気分良くここから次の目的地、信夫文知摺石に向かう。
芭蕉は城下の宿を出て信夫山を左手に見ながら阿武隈川西側の奥州街道を進み、文知摺橋を渡って信夫文知摺石に向かったが、私は阿武隈川東側に沿った県道309号線を北に行き、文知摺橋からくる国道115号を東に進んだ。
阿武隈川沿いを歩きながら後ろを振り返り見ると、ゆったり流れる阿武隈川と福島中心街の遥か後方には、吾妻連邦と安達太良山の雄大な眺めが見えている。


国道をしばらく行くとやがて「文知摺観音普門院」の看板が目に入ってくる。境内に入るとすぐ正面の石垣の上に芭蕉句碑があり、その後ろに文知摺石がある。
  - みちのくの忍 もぢずり誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに –
百人一首にある源融(みなもとのとおる)の歌で知られる信夫文知摺石がこれである。


「もじずり」は平安貴族も着用し、忍草の葉を布(特に絹)に摺りつけて、もじり乱れた模様を染め出したもので、摺石はそのために用いられた。ところが、芭蕉が目にしたものは谷に突き落とされ、模様のついた表を下にした石であった。奥の細道本文には次のように記している。『あくれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里の童部(わらべ)の来たりて教えける、昔はこの山の上に侍りしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試み侍るをにくみて、この谷につき落とせば、石の面(おもて)したざまにふしたりという。さもあるべき事にや。』
歌枕の地を訪ねて旅に出た芭蕉にとっては、安積山に続いてまたも期待を裏切られたが、田で早苗を植える乙女の手つきにしのぶ摺の手つきを重ねて、その心を句にした。
  - 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺 -

芭蕉には気の毒だったが、現在、境内には観音堂や福島県指定重要文化財の多宝塔、虎女と左大臣の墓など見るべきものが沢山あり、静かな自然の中で散策すると、しばし心が洗われるような気分になる。(下の写真左は多宝塔、右は観音堂


文知摺~医王寺、飯坂温泉
文知摺石を見物した芭蕉は、阿武隈川を月の輪の渡で越え、瀬上の宿から源義経ゆかりの医王寺に向かった。

文知摺観音から少し戻って、県道4号線を北へ道なりに進んでゆく。やがて県道387号線を西に行き、月の輪大橋で阿武隈川を渡る。芭蕉はこの橋より少し下流の月の輪の渡しで川を越えている。
橋を渡って、少し行くと国道4号に出、これを右に曲がって少し行って左に分かれて行くと旧奥州街道の県道353号線に入って行く。このあたりから瀬上宿に入り、少し先に瀬上嶋貫本家の重厚な建物が目に入ってくる。


瀬上宿は阿武隈川水運の瀬上河岸があり、また飯坂を経て山形へ抜ける山形道や、月の輪渡しを経て保原、相馬へ抜ける中村街道の追分があり、2と7の日の6斎市は近隣の人で賑わったという。

龍源寺の先で県道155号線に入り、あとはこれをまっすぐに行けば医王寺にたどり着くはずである。
左折してからしばらく進んだ東北本線手前の右側に日枝神社がある。鳥居の右手に「寛延二年農民一揆発祥の地」の標柱が立っていた。日枝神社を後に、東北本線、東北新幹線、更にその先で東北自動車道のガードをくぐって、県道をひたすら西に向かって進む。道沿いには行けども行けども桃畑が続いている。


やがて福島交通飯坂線の踏切を渡って少し狭い道をさらに進んで行くと、桃畑の中で突当りになる。そこを左に行くと、突当りがスイッチバック式のかなり狭い坂道となっている。この坂を上りきったところに芭蕉坂の道標が立っており、その横が医王寺の入口であった。

医王寺


医王寺は、藤原秀衡に仕えていた信夫郡の庄司佐藤基冶一族の菩提寺であった。ここには、源義経に仕えた佐藤継信、忠信兄弟、その父基冶と母乙和の墓がある。
佐藤基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので佐藤庄司と呼ばれ、丸山(館山)の大鳥城に居を構え、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族である。
平治の乱の後、密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた源義経は、治承4年(1180)になって源頼朝が挙兵した時、平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつた。その時、基冶は義経に、継信、忠信兄弟を従わせたが、兄弟はいずれも義経を守って転戦の上討ち死にした。

山門の前で拝観受付の際、本殿に上がってもよいということだったので、ちょっと緊張しながら本堂の戸を自分で開けて入ってみた。参拝者も寺の方も誰もいなくて静寂の空間にただ一人だ。本尊の右側には佐藤一族の位牌殿があり、その両脇に兄弟の妻達の人形が祀られていた。


義経の下、平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなったが、二人の息子を失って嘆き悲しむ年老いた義母乙和御前を慰めよう思いやった兄弟の妻達が、自らの悲しみをこらえ、夫の甲冑姿を再現して親の心を和らげたという話が、孝行の鑑として後世に伝えられている。

芭蕉は、佐藤基冶の屋敷跡とその菩提寺である医王寺を訪れ、奥の細道本文では次のように記している。『・・・飯塚の里鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。是れ、庄司が旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先づあわれなり、女なれどもかひがひしき名の世に聞えつるものかなと袂をぬらしぬ。・・・』義経に殊のほか心を寄せている芭蕉は、佐藤一族所縁の地に立ち、涙を抑えることができなかったのであろう。
本堂を出ると、そこには芭蕉句碑が建っている。
  - 笈も太刀も さつきにかざれ 紙のぼり -

内門から鐘楼堂前に出て奥の院に続く杉並木の参道を進む。やや細くて長くまっすぐに延びている参道は、誰にも遭うことがなく静まりかえっていた。


参道途中の右側広場に、義経と継信・忠信兄弟の石像が建っていた。
更に、参道を進むと、正面に薬師堂が建つ広い所に出る。薬師堂の後ろには佐藤一族の墓がある。


芭蕉はこの後、飯坂へ向かい、宿をとって湯に入った。

飯坂温泉
奥の細道本文に、『温泉(いでゆ)あれば、湯に入りて宿をかるに、土座に莚(むしろ)を敷て、あやしき貧家なり』と記している。そして、夜に入ると雷鳴とともに雨漏り、それに蚤や蚊に食われて眠れず、おまけに持病の腹痛まで起こり『消え入るばかり』になったという。
芭蕉は、この飯坂でのことを、散々な目に遭ったように記しているが、この先の辺鄙な田舎を巡る長旅に向けた覚悟を自身に言い聞かせているのであろうとも言われている。

温泉街の中ほどに鯖湖神社があり、鳥居の脇に「飯坂温泉発祥の地」碑が建っている。その横に、飯坂温泉で最も古い鯖湖湯という共同浴場がある。芭蕉が湯に浸かったのはこの鯖湖湯という説もあるが定かではないらしい。

 


すぐ近くの土蔵造りの旅館は、江戸時代から続くなかむらや旅館で、建物は国登録の有形文化財に指定されている。
鯖湖湯の先には、江戸時代から続く豪農・豪商の旧堀切邸があり、屋敷の塀に沿って行くと俳聖松尾芭蕉ゆかりの地入口と刻まれた石標が建っている。そのまま直進し、ちゃんこちゃんこと呼ばれる狭い石段を下りて行くと、そこには滝の湯跡の説明板と松尾芭蕉ゆかりの地碑が建っていた。

 


折角なので鯖湖湯に立ち寄ってみたものの、ものすごく熱くてとても入れるものじゃなかった。困っていたら、地元の常連の方がホースで水を引き入れてくれて、ようやく何とか入ることができた。湯船ごとの温度がはっきりしている那須温泉鹿の湯に入った時の経験から、水でぬるくしたところでも48度くらいの熱さだったと思われる。入口にかけてある看板に、「泉温51.0度、浴槽温度47度前後(源泉かけ流しの為、熱いお湯が特徴です)」と書いてあった。

ともあれ、暑い日差しを浴びながら一日中歩き廻って汗と埃まみれになっていた我が身も、鯖湖湯でさっぱりし、電車で再び福島の前日と同じホテルに戻った。そのあと、福島在住の身内に大変ご馳走になったのだが、この日は格別アルコールの回りが早かった。
飯坂温泉駅前には芭蕉像が建っていた。
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今回の旅の3日目は福島駅から桑折まで電車で行って、そこから奥州街道を北に向い、藤田宿、国見峠、貝田宿、宮城県の越河宿、斎川宿を経て、白石宿まで行く予定である。 芭蕉は、前日の飯坂温泉で体調を崩したらしく、馬で桑折まで出たという。飯坂温泉の方から来る現在の県道124号線が旧奥州街道と合流するところに桑折寺がある。そのあたりが当時の桑折宿の入口にあたるので、桑折駅から少し福島方向に戻った桑折寺のところから本日の旅を再開する。

桑折(こおり)~国見峠・伊達の大木戸
桑折寺は、鎌倉時代に開かれた時宗の寺で、この地域では最も古い。伊達氏の分家である桑折氏の菩提寺で、この寺の山門は、伊達氏が西山城から米沢に移る時、城内の門を移したもので、向唐門(むかいからもん)というあまり見かけない様式のものだ。


桑折寺から街道を進むと、旧伊達郡役所が残っている。明治16年に建てられたという、東北地方に残る洋風建築の優品のひとつとして国の重要文化財に指定されている。


街道は郡役所の前で左折し、桑折宿の中心部である本町に入る。

桑折宿は奥州街道と羽州街道の分岐点であるとともに、阿武隈川の舟運河岸のある交通の要衝であった。奥州、羽州の街道を南下してきた弘前、秋田、新庄、山形、南部、仙台などの大名たちはここ桑折宿で休泊した。先ほどの伊達郡役所の近くに本陣があったという。
竜宮門を構える大安寺の参道入口の立派な木造の旧家やかつての店蔵を利用した桑折御蔵など、旧桑折宿には往時を偲ばせる古い土蔵造りの家や立派な門構えの家など何軒も残されている。

街道から少し奥まったところにある法圓寺の境内には芭蕉田植塚がある。


享保4年(1719)に桑折本陣の主人で俳人の佐藤馬耳が、芭蕉の句、
  - 風流の 初めや奥の 田植うた –
の短冊をここに埋め、塚を築き芭蕉翁と刻んだ碑を建てて芭蕉の供養とこの地方の俳壇の隆盛を祈願したという。

街道を少し行くと、無能寺というお寺がある。このお寺は、明治天皇が東北巡幸の折に御小休所となった。天皇は境内の大きな美しい松に感嘆され、「御蔭廼松(みかげのまつ)」と命名されたという。街道から少し奥まった境内には、今も見事な松が残っている。


無能寺の少し先で奥州街道と羽州街道の追分となる。まっすぐ行くのが奥州街道、左に分かれていくのが羽州街道である。


ここは奥州街道をそのまま行くが、奥の細道を辿るこの旅で、平泉を訪ねてから出羽越えをすると、あらためて羽州街道を歩くことになる。

街道は、やがて藤田宿に入る。桑折宿から一里余りと近いが、こちらは近在の衆が集まる遊興の町の色合いが強かったらしい。近くに半田銀山のあったことも影響しているのだろう。
藤田宿の北地区に入ると、左側に一見変わった建物が建っている。大正時代の洋館と和風・主屋が合体している奥山家住宅で、国登録有形文化財となっている。


鹿嶋神社前を過ぎ、街の中を抜けた旧奥州街道は、やがて国道4号に合流する。
この先、目指す国見峠・長坂への道はちょっと分かりにくい。
国道4号に合流し少し行くと、国道右手に国見町立県北中学校のあるところで旧街道は国道の右側の細い道に分かれる。
緩い下り坂を進んで道なりにそのまま行くと大木戸に向かうのだが、長坂に行くには道路標識のある交差点で左に曲がって石母田の方に行き、国道4号のガードをくぐる。すると、すぐ先で国見神社の鳥居が見え、階段を上ると国見神社の前に出る。
この神社の前の道を少し行くと、義経の腰掛松のところに出た。義経が平泉へ下向の際、この松の枝に腰掛けて休息したという言い伝えがある。見事な枝ぶりだった二代目が平成26年に枯れ死した為、現在の松は三代目だという。初代の松株が覆い屋の中に保存されている。


長坂はここからさらに厚樫山に向かって上って行くのだが、上るにつれてちょうど花が見ごろの桃畑が一帯に展開する眺望となる。


おまけに、たまたま運よく、青空が広がり始めて、実に素晴らしい眺めとなった。


桃畑の中の道をさらに上ってゆくと、「国史跡阿津賀志山(あつかしやま)防塁」の標識の出ている場所に出た。


この付近一帯は、文冶5年(1189)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡の軍が激戦を交えた古戦場である。奥州藤原軍はここに長い防塁を築いて防衛拠点としていた。しかし、決戦は頼朝軍の圧勝に終わり、奥州藤原氏は崩壊し、時代は鎌倉幕府の誕生へと向かっていった。

防塁跡のすぐ先で国見峠の頂上になる。頂上付近に「旧奥州道中国見峠長坂跡」の説明板があった。「・・・この道は、東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。伊達駅(藤田宿)を経由しほぼ直線状に延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切りとおした辺りから長坂と呼ばれる急な坂道に差し掛かり、登りつめた所が国見峠である。近世におけるこの道は、仙台、盛岡、松前藩などの諸侯の参勤交代の道として使用された。・・・・」。
説明板の横にわずかながら古道が残っていて、そこを上って行くと頂上部分で昔、茶屋があったところに『芭蕉の碑』が建っている。

 


芭蕉は本文の中で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と記しているが、ここにきてみると当時の様子をなんとなくうかがい知ることができる。

伊達の大木戸~越河(こすごう)~白石
長坂を下ってゆくと国道4号に出る。国道の反対側に、大木戸集落に入って行く道であることを示す標識が見えた。
国道をしばらく行くと旧道が左に分かれてゆくので、こちらを進む。やがて道の脇に貝田宿の表示板や説明板などが点在している。貝田番所跡の案内標識の方に行ってみると、標識が立っているだけで遺構は何も残っていない。その奥の最禅寺参道には大きな庚申搭がいくつも並んでいる。

再び国道4号に出て少し行くと、福島県、宮城県境界を越え、宮城県白石市になる。その少し先に国道4号、東北自動車道、JR東北本線の3本が1点で交差する場所がある。この付近のJR線路脇の斜面に越河番所跡の標識が立っている。


JR線路によって分断されてしまったが、かつては旧道がその辺りを通っており、そこに越河番所があった。この番所は仙台藩に入る境目番所で、取調べが厳しかったようだが、曾良の旅日記でも特に記していない。

国道4号をしばらく行くと旧道が左に分かれ、越河宿に入ってゆく。JRの線路と国道4号に並行してこの町並みは結構長く続いている。再び国道に合流して少し行くと道の脇に大きな馬牛沼が見えてくる。馬牛沼は、9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬が、この沼に落ちて死んだことから馬入沼という、等々の伝承がある。


馬牛沼の少し先で旧道が右に分かれてゆく。鎧摺(あぶみすり)坂と言われるこの道は、かつては左側が谷で、右側は大きな石が迫り出していて、馬一頭がやっと通れる道幅で奥州街道一の難所といわれたところだ。坂名の由来は、源義経が鐙を石に摺りながらここを通ったことによる。
途中、右側の斜面に大きな庚申搭と並んで「孫太郎虫供養」と刻まれた大きな石碑が建っていた。かつては、斎川宿の大きな財源であった疳(かん)の薬の材料である孫太郎虫(ヘビトンボの幼虫)の供養碑で、なかなか珍しい供養碑だ。


やがて、ひと際街道を桜の花が彩っているところが目に入ってくる。この先に田村神社があり、その境内に甲冑堂がある。
田村神社は征夷大将軍坂上田村麻呂を祀った神社である。9世紀の始め頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や、青頭・赤頭など鬼形の者たち(山賊)に苦しめられている村人たちのことを知り、悪者退治をした。村人はその恩徳を慕って祀ったのが田村神社の始まりと伝承されている。
田村神社境内にある甲冑堂(六角堂)には、義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟の妻楓・初音の甲冑をおびた木造が納められている。


医王寺で芭蕉が涙した佐藤継信・忠信兄弟の妻の像は、実際はこの甲冑堂にあったものといわれている。

田村神社の前は桜が実にみごとで、周辺の道も桜並木が実に綺麗であった。


この先で、道は斎川宿に入ってゆくが雨が降り出したので、新幹線の白石蔵王駅まで急いだ。
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桜の時期の旅は、開花のタイミングとともに天候を見計らってベストな日程を組むのがなかなか難しい。今回の旅では、3日目の最後に少し雨がぱらつくことがあった以外は、非常に好天に恵まれ、行く先々で桜や花桃など春爛漫の景色に迎えられて最高の旅であった。

越河で県境を越えて宮城県に入り、白河からはじまった福島県中通りを通る旅を終えた。福島は、私の郷里の越後と歴史的にも地理的にも近いのだが、これまでは近くて遠い存在だった。しかし、今回の旅を通して、自分の足で歩いて廻って、あらためて色々見聞きし、少し身近に感じられるようになった。

奥の細道の旅はこの先まだまだ長いが、福島には、白河街道をはじめとする会津五街道など脇街道や歴史的古道も色々あるので、これを機会に奥の細道の旅とは別に歩いてみたい。