石巻~平泉

2015年11月16日 石巻~登米
2015年11月17日 登米~一関~平泉

芭蕉が奥の細道の旅に出たもともとの目的は、みちのくの歌枕を訪ね歩くことであった。昨年、私の奥の細道を辿る旅として、仙台から多賀城、塩釜、松島と巡った後、山寺、出羽三山、鶴岡の方に先行して行っていたので、今回あらためて、松島の先の石巻から登米を経て平泉を巡る旅に出ることにした。

11月15日夜、仙台行の高速バスで新宿を出発、翌朝5時過ぎに仙台駅前に到着し、5:29発のJR仙石線で石巻に向かう。石巻に向かう途中、多賀城や本塩釜を通過するときには、昨年訪れたときのことが懐かしく思い出される。
やがて、列車が松島あたりに来ると、ちょうど松島湾に陽が昇り始め、海岸線に最も近い所を走る陸前富山から陸前大塚にいたる区間では、夜明けを迎えようとする奥松島の眺めに旅心が大いに刺激される。


7時前には石巻に到着。この時期としては比較的暖かく、天気に恵まれて絶好の歩き旅日和だ。
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石巻
石巻は、かつて葛西氏の城下町で、仙台、盛岡、一関などの米を集めて江戸に送る東北屈指の港町として栄えていた。だが、その石巻も、先の東日本大震災と津波によって大きな被害を受けている。まずは、駅から30分ほどの、石巻市街を一望できる日和山に向かってみると、途中の街中では気が付かなかったが、山頂の鹿島御児神社鳥居のあたりからは、先の地震と津波による被災の様子を否が応にも目の当たりにすることになった。


特に山の南側(海側)や北上川河口周辺は、ほとんどが更地になっており、甚大な被害を受けていることが分かる。この日和山からの様子は、震災直後にテレビでも報じられていた。ここに来て、あらためてその時の恐ろしい光景が目に浮かぶ。


日和山は標高60mほどの小山だが、眼下に流れる旧北上川河口の先に太平洋が広がり、遠くに牡鹿半島などが臨める、真に見晴らしの良い所である。かつては芭蕉も訪れ、ここから眺めた石巻の様子を『・・・金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。・・・』と記している。もし、芭蕉が再びここを訪れて、今の石巻の様子を見たら、果たしてどう記すであろうか?


芭蕉は石巻で一泊し、ここから北上川沿いの一関街道で平泉を目指している。今回、駅前から飯野川橋までは鹿又経由のバスを利用する。駅前でバスを待つ間に、駅売店でお弁当を買い、駅前のベンチで広げて少し遅めの朝食にする。地産の海の幸満載のこの特製弁当は、ささやかながら復興支援になるものらしい。
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石巻~登米
曽良の随行日記によると、芭蕉たちは、石巻から鹿又まで2里、そこから飯野川まで1里あまり舟で旧北上川を渡っている。その後、飯野川から柳津まで、長い沼がある山間の道を3里、柳津から登米まで1里半を歩いて、登米で一宿している。
奥の細道では『・・・遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。』と記されている。

石巻から登米へは、北上川沿いの一関街道を行く。このうち、飯野川橋を越えたあたりから柳津までの間は、豊かな水を湛える北上川が山間を貫いていて、途中にほとんど人家もなにもない所をひたすら歩いて行く。この北上川は明治末年からの工事で、鹿又から飯野川間が開削されてできた新北上川である。飯野川橋の少し上流に灌漑用水のための北上川大堰があるが、芭蕉の時代は、この辺りは長沼(合戦ヶ谷沼)といわれ、東西300m、南北1500mにも及ぶ、巨大で細長い沼だったという。北上川大堰の少し手前に、かつて、芭蕉が『心細き長沼にそふて・・・』と記していることに因んで芭蕉公園と記された広場がある。


本来なら北上川を眺めながらのんびりと静かな歩き旅が望めそうなところだが、現実は、震災復興工事のダンプカーがひっきりなしに行き交っていて、かなり危険が伴う道中であった。途中、数か所に山を切り崩す採石場があり、ダンプカーはそこを次々に出入りし、復興工事のための石を運んでいるのである。柳津までの長い道中、ダンプカーのほかに見かけるものはほとんど無く、いわんや歩いている人など一人もいない。

柳津(やないづ)
飯野川橋から3里ほど歩くと、漸く人の生活感が感じられる柳津にたどり着く。ひっきりなしに行き交うダンプに恐怖を覚え、緊張しながらひたすら歩いて来たが、ここでやっとほっとする。ここまでは、ゆっくり腰を下ろして一休みできるようなところが全くなく、道路わきで立ったままペットボトルのお茶を飲むしかなかった。ちょうど昼時でもあり、河川敷の草原に腰を下ろし、用意してきたおにぎりをほうばって、漸くひと息つくことができた。


柳津は一関に向かう一関街道と、気仙沼に向かう東浜街道が交差する交通の要衝の地で宿場があった。現在もここで気仙沼に向かう国道45号と一関に向かう国道342号が分岐する。また、この地は北上川が新水路と旧水路に分岐する地点でもあり、大きな水門が遠くからも目に付く。
一関街道沿いの街中は、宿場町を思わせる古いつくりの家も少し残っているが、ここでも静かな街中を大型ダンプが行き交っている。
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登米(とよま)
一関街道は柳津小学校までは街道の両側に民家が連なっているが、その先からは北上川に沿って民家のない北上川堤防上の道となり、再び歩道のない片道一車線の道を大型車がひっきりなしに往来するところとなる。途中から、道路に並行して広い草道のようなところが続いていたので、車を避けてそちらを歩くことにした。


柳津から5kmくらい歩くと、登米大橋が見えてくる。この橋を渡ると登米(とよま)の町である。
登米は、地区名としては旧来の呼び方を残し従来から登米郡登米町(とめぐんとよままち)であったが平成17年登米郡の9町がそのまま合併する形で登米市(とめし)となった。結局、登米市登米町は「とめしとよままち」と読む。
登米大橋を渡った土手の上に芭蕉翁一宿之跡の碑が建っている。芭蕉たちはこの町で一宿しているが、曾良の旅日記では、『宿を貸してくれる家がないので、検断に頼んで泊めてもらった』と記されている。


登米は、約800年前、葛西氏がこの地に築城したのが始まりで、江戸時代には、伊達家一門の登米伊達家が明治まで続いた城下町であった。また北上川の水運の流通拠点として栄えたが、その後の鉄道ルートからは見放されてしまった。
現在の街並みには、黒塀と白壁の武家屋敷が数多く残っており、白壁土蔵の商家がところどころに見られる。また、明治の洋風建築も残されていて、「宮城の明治村」と称する歴史と文化の趣がたっぷり残る町である。

登米大橋を渡ると、すぐのところになまこ壁の趣ある建物の海老喜味噌醤油店が目に入る。また交差点を南に少し行ったところには大きな看板を掲げる鈴彦商店の趣ある建物が建つ。

この日予約している宿はこのすぐ近くなので、荷物を預けて暗くならないうちに街並みを見て廻ることにする。

観光ガイドでは、明治時代の洋風建築の警察資料館、国定重要文化財で旧登米高等尋常小学校の教育資料館、などがよく紹介されている。


いくつも残っている武家屋敷の多くが、今もなお個人の住居などとして使われているというのが素晴らしい。


他にも、この街にはいろいろ見どころがあり、独特の魅力が感じられる街である。

一通り街並みを見て廻り、予約していた鮱武(えびたけ)旅館に入る。創業250年という旅館で、1泊2食付6500円という格安料金なのであまり期待していなかったのだが、部屋に運ばれた夕食にびっくり。自慢の炭火焼牛タン、登米名物ウナギのかば焼き、三陸の魚介の刺身他、という口コミ通りの内容に大満足。女将に勧められた地酒に勢いづき、ついつい晩酌が進んでしまった。

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登米~平泉
登米から平泉までは歩くと優に丸一日かかるところだが、今回は平泉でゆっくり過ごしたいので、バスと電車を使うことにする。ところが、陸の孤島のような登米は良くも悪くも公共交通の便がすこぶる悪い。宿のご主人に相談の結果、バスを乗り継いでJR新田まで行き、東北本線で列車を乗り継いで平泉に向かうことにする。


朝食後、朝日に輝く北上川の堤防を散歩し、宿の近くの高倉勝子美術館前から7:25発のバスに乗る。北に向かう登米線は、おおむね芭蕉たちの歩いた一関街道に沿って行き、北上川が大きく蛇行している長谷寺のところで、一関街道から離れて西の方の登米市役所方向に進む。佐沼高校前で一旦バスを新田線に乗り換え、新田駅の方に向かう。登米市民バスはどれだけ乗っても一律100円なのにはちょっとびっくり。そういえば、途中で見る公共施設はどれも新しく豪華なものが多かった。非常に立派な農家の屋敷なども多く、このあたりはかなり豊かな土地柄のように思えた。後日知ったことだが、佐沼は、当時江戸の3分の1をまかなった仙台米の重要な流通拠点として栄えたところであった。

登米を出て1時間半ほどで新田駅に到着。9時過ぎの電車を待つ間、駅周辺に鳥たちの鳴き声が響き渡ることに気が付く。地元の人に聞くと、駅のすぐ北側に伊豆沼という大きな沼があり、あたりは白鳥や雁などの渡り鳥が集まることで有名なところだという。なるほど、先ほどから白鳥や雁の群れが頻繁に空を舞っており、駅周辺では多くの鳥の鳴き声で賑わっている。伊豆沼は、冬でも凍結せず、多くの水鳥が越冬するのにピッタリの条件を備えており、渡り鳥たちの楽園であるとともに、魚類、昆虫類など多種多様な生物が生息しているという。
1年を通じて貴重な原生の自然の姿を見ることができるスポットだということであり、機会あればあらためて訪れてみたいところだ。
新田から東北本線に乗り、一関で列車を乗り換えて、10時半頃漸く平泉にたどり着いた。

芭蕉たちは、5月12日(新暦6月28日)、登米を発って一関街道を進んだが、途中、次第に雨脚が強くなり、涌津からは馬に跨っての道行きとなった。その先、金沢宿付近で、大槻から日向に抜ける山坂ばかりの道を行くことになって、『合羽モトヲル』ほどの激しい雨の中、ようやく一関にたどり着いた。翌5月13日(陽暦6月29日)は一転して晴天となり、一行はいよいよ平泉に出かけた。
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平泉
平泉駅前から右に延びる道は中尊寺通りといわれ、車も少なく静かな通りを道なりに行けば中尊寺に至る。途中、踏切を渡って少し行った左側の道の脇に無量光院跡が広がっている。

無量光院跡
藤原秀衡が、宇治平等院を模して建立したもので、発掘調査によれば中心になるお堂もそこから伸びる翼廊も平等院の鳳凰堂よりもひとまわり大きく建てられていた。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれ、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土を思い描いた、浄土庭園の最高傑作と言われている。


芭蕉が『秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。』と記している辺りである。芭蕉の時代には田野になっていた所も、現在では発掘調査が進み、どこにどのようなものがあったか推定できるようになっている。
無量光院跡の手前を右に曲がり、北上川方面に少し進むと柳之御所遺跡がある。昔からこの場所には藤原氏の居館跡である柳の御所があったとの言い伝えがあった。近年、この地域の大規模な発掘調査が行われ、中世都市・平泉の姿がかなり明らかになってきた。

高館(たかだち)・義経堂
少し進むと高館義経堂の案内標識があるので、それに従い右に曲がると、少し先に丘に上る階段がある。高館には、源義経が藤原秀衡から与えられた居館があった。


丘に上ると、眼前には北上川の雄大な流れがあり、対岸には駒形峰から束稲山へと連なる山域を眺望できる。西行の古歌を通じて吉野山にも比肩する桜の名所として、さくら山の名で知られるとことなった。


少し先に義経堂、そしてそのすぐ近くに大きな芭蕉句碑が立てられている。この辺りで義経は最期を迎えたとみられている。

 


芭蕉が、遥々みちのくの旅に出た目的は、多くの歌に詠まれた歌枕の地を訪ねるとともに、源義経が最期を遂げた地に実際に立ってみたいという想いがあった。この場にきて、雄大な景色を前に、悠久の時の流れの中に置かれた人の営みに想いを馳せ、さぞや涙を抑えられなくなったのであろう。句碑には句とともに、ここでの感慨を綴った奥の細道本文の一節が記されている。
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  - 夏草や 兵どもが 夢の跡 -
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。
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義経堂の近くに、頼三陽の第3子で幕末の尊王攘夷派の志士であった頼三樹三郎の詩碑が建っている。頼朝と義経、平泉と鎌倉の悲しい歴史の浮き沈みのはかなさを読んだものだが、自身も安政の大獄で捕らえられ、小塚原刑場の露と消えた。

卯の花清水
高館を下って中尊寺通りに戻ると、東北本線の踏切を渡る手前右に、卯の花清水がある。卯の花清水は高館義経堂から下った所に湧き出る清水で、元禄2年に芭蕉と共にここを訪れた曽良が、
  - 卯の花に 兼房みゆる 白毛かな -
という句を読んだ事に由来している。句の意味としては、義経の忠臣の一人兼房が高館落城の折、白髪を振り乱しながら奮戦し、遂には死を遂げた様を、白く咲き乱れる卯の花に例えたもの。


中尊寺
東北本線の踏切を渡った少し先で国道を横断すると、道の脇に大きな武蔵坊弁慶の墓が建っており、その先に中尊寺参道入口が見える。奥の細道の『泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり』の「衣が関」は藤原朝の関を指していると考えられている。
清衡が中尊寺を建立した後、南は白河の関から北は外ケ浜までの路一町毎に、金色の阿弥陀仏を彫った笠卒都婆を道標として建て、さらに白河の関と外ケ浜の真ん中を中尊寺・関山として関を置き、中尊寺の境内を通る道を旅人が往還する関道とした。

参道の月見坂は結構きついが、途中の茶店で一休みしたり、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂、中尊寺本堂、など次々に現れる見所を巡りながら坂を登っていく。

 


そうこうするうちに山の頂上にたどり着くと金色堂がある。


中尊寺金色堂は。立派な鞘堂に覆われ、外からはその姿が見えないがこのおかげで風雨から守られてきた。金色堂は平安時代末期に藤原清衡により建てられ、全盛期には寺塔四十余、禅坊三百余の規模であったと伝わるが、度重なる火災により創立当初の建物で残っているのは金色堂のみである。ちなみに、金色堂は、日本の国宝第1号に指定されている。
金色堂の隣に経蔵がある。お経を納めていたお堂で、元は二階建ての建物だったが、二階部分を焼失し、残った一階部分の旧材を用いて平屋で再建された。芭蕉はこの再建されたお堂を見ている。芭蕉の時代には、中尊寺には金色堂とこの経蔵の二つの建物しかなかった。


その近くに旧鞘堂が移築されて残されている。これは鎌倉時代に建てられたもので、芭蕉はこの鞘堂に納められた金色堂をみている。現在は、この旧鞘堂の中には何もなく、真ん中に秀衡の八百年忌の大卒塔婆の大きな角柱一本立つのみである。


旧鞘堂の手前に、芭蕉の像が句碑とともに建てられている。
  - 五月雨の 降のこしてや 光堂 -


旧鞘堂に向かって右手奥のほうに行くと白山神社が鎮座しそこには能楽堂がある。

白山神社の祭礼では、中尊寺一山の僧侶による能が神前に奉納されている。

金鶏山
金鶏山は藤原秀衡が平泉を守るため雌雄一対の黄金の鶏を埋めたといういい伝えがある。登山口から10分ほどで山頂に着く低山だが、奥州藤原氏が山頂に経塚を築いた信仰の山で、中尊寺・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡のいずれからも近くにあって平泉のまちづくりの基準とされた。
前述の<無量光院跡>の写真には背景にゆったりと横たわる金鶏山が見られる。
この金鶏山の登山口に義経妻子の墓が置かれている。義経は高館での最後に際し、妻と我が児を自分の手にかけてから自害したと言われている。


観自在王院跡
毛越寺に向かうと手前に隣接して観自在王院跡がある。基衡の妻の建立で、大小の阿弥陀堂が池に臨んで建てられていた。建物は皆失われたが、発掘調査に基づいて舞鶴が池が復元されており、往時の面影が偲ばれる。


付近に車宿跡という説明板が立っている。当時、この辺りに牛車を止めておく車宿が並んでいたという。毛越寺周辺は平泉の町への入口に当たり、倉庫や車庫、背の高い建物などが建ち並び、町のメインストリートをなしていたと考えられている。

毛越寺(もうつうじ)>
毛越寺は嘉祥3年(850)の開基と伝えられ、その後、藤原氏二代目の基衡が七堂伽藍を建立、さらに三代目の秀衡が社殿や坊舎を造り完成させた。度重なる災禍にあい建造物のほとんどは失われているが、寺塔の礎石、遺構はよく残り当時の面影を偲ぶことができる。
入口を入って正面に見えるのは本堂で、右手には庭園の中心に大泉が池が広がり、池の周りには開山堂、遣水、常行堂などが並び、平安の世界を満喫できる場として国の特別史跡、特別名勝となっている。

 

 


遣水は山水を池に取り込むための水路であるが、水底には玉石を敷き詰め、蛇行する流れに石組を配し、優美な景観を呈している。平安時代の完全な遺構としては日本唯一のもので、毎年5月の第4日曜日に、ここで曲水の宴が催される。


常行堂の本尊は宝冠阿弥陀如来で、毎年正月20日には、国指定の重要無形民俗文化財である「越年の舞」が奉納される。


毛越寺を巡った後、平泉駅に向かい帰途に就いた。
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平泉の文化遺産は、平成23年に世界文化遺産に登録された。浄土思想に基づいて作られた寺院、庭園、遺跡群が、この世に理想世界を作り出そうとしたものとして認められた。だが、芭蕉の時代にすでに田野になっているところが多く、文化遺産の多くは近年の発掘により遺跡として復元整備されたものである。他の文化遺産と比べると、建物などはほとんど残っていなくてやや殺風景な印象だが、それでも遺跡群を訪ね歩くうちに、いつのまにか往時の優美な雰囲気に浸っている気がしてくる。まさに平泉は奥州藤原氏三代の夢の跡であった。

今回、平泉の観光案内にあった資料で、四寺廻廊なる参拝の仕方があるということを知った。慈覚大師円仁が平安時代に開いた平泉の中尊寺、毛越寺および松島の瑞巌寺、山寺の立石寺、の四寺を巡る参拝のことを言う。今回、期せずして四寺廻廊参拝を済ませることとなったが、さすがにどれも印象に残る寺ばかりであった。
円仁は、承和5年(838)遣唐船で唐に渡り、承和14年(847)に帰国。帰国後、朝廷の信任を得、斉衡元年(854)延暦寺の座主となり、貞観6年(864)に71歳で没した。その2年後の貞観8年、生前の業績を称えられ、日本で初の大師号・慈覚大師の諡号(しごう)が授けられた。
関東以北には、慈覚大師の開祖(または中興)とされる寺が数多くあり、立石寺のある山形県においては10を越える寺を開いている。これは、慈覚大師が天長6年(829)から天長9年(832)まで東国巡礼の旅に出た折に、天台の教学を広く伝播させたことが大きな理由となっているが、天長7年(830)に発生した出羽を中心とする大きな地震の被災者救済に尽力するためだったともいわれている。

それにしてもこの時代、大きな地震・噴火が頻発している。主なものだけでも、嘉祥3年(850)出羽国地震、貞観5年(863)越中・越後地震 、貞観6年(864)富士山噴火、そして貞観11年(869)には陸奥国東方沖の海底を震源域とし多賀城の損壊を含め甚大な被害をもたらした貞観(じょうがん)地震が発生している。貞観13年(871)には鳥海山の噴火もあった。

先年の東日本大震災では東北地方太平洋岸一帯に甚大な被害があった。前日訪れた石巻の日和山で、ひとり海に向かって手を合わせる老人の姿があったことが、今回の旅ではとても印象的であった。