2016年9月5~6日 直江津~能生~市振
4年に一度のオリンピックイヤーに催される中学時代の同窓会に出席するため、郷里柏崎に行く機会に、折角なので直江津から市振まで足を延ばすことにした。折しも、台風が九州に接近しており、今後日本海に抜けるという予報が連日報じられていて、北陸地方への影響が微妙な中での旅立ちとなった。
同窓会の翌日、9月5日は朝から青空が広がるいい天気になっている。昨年、北国街道歩き旅で軽井沢の追分を出て高田まで来たあと、春日山に立ち寄り、加賀街道で国府別院のすぐ手前のところまで来たところで、黒井に向かっていた。今回は、柏崎から電車で直江津に行き、まずは加賀街道沿いの本願寺国府別院を訪ね、居多神社、五智国分寺を巡って一路能生を目指すことにする。
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直江津・高田
芭蕉は直江津、高田で七夕の前後5日間を過ごし、降り続いていた雨が上がった7月11日(陽暦8月25日)高田を立って、五智国分寺と居多(こた)神社に参拝して名立に向かった。
直江津駅を出て、いかにも雪国らしい赤茶けた融雪道路の商店街を通り抜けるとやがて加賀街道にでる。しばらく高田の方に向かって歩くと、本願寺国府別院とすぐわかる大きな看板が見えてくる。
<五智国分寺界隈>
本願寺国府別院は、承元元年(1207)35歳のとき京を追放され、越後国府に配流になった親鸞聖人ゆかりの寺で、1年間は国府国分寺境内の竹之内草庵に住み、その後、竹ヶ前草庵に移るが、そこに建てられたのが本願寺国府別院である。
本願寺国府別院から居多神社に向かって行くと、途中の愛宕神社や白山神社周辺に蓮池がいくつもあり、時期遅れの花がまだ少し残っていて何となくいい雰囲気である。
居田神社は、越後国司、越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護を受け、越後一の宮として崇敬されてきた。
すぐ近くには五智国分寺がある。国分寺は、聖武天皇が一国一寺の建立を命じたのが始まりである。当時の越後国分寺の所在については諸説があるが、現在の五智国分寺は永禄5年(1562)に上杉謙信によって再興したと伝えられ、江戸時代には幕府から厚い保護を受けていた。
居多ヶ浜
五智国分寺を出て海に向かって歩いて行くと、「親鸞聖人上陸の地」という小公園があり、記念碑と説明板が立っている。越後国府に配流になった親鸞は、北陸道を下って能生から船で国府に至り、この地に上陸したと伝えられている。
居多ヶ浜から県道468号をしばらく進むと郷津で国道8号に合流する。途中、直江津海水浴場のあたりで道路が一部崩落して通行止めになっていたが、辛うじて通り抜けた。合流地点は久比岐自転車歩行者道の入り口になっていて、海岸線に沿った国道とほぼ並行して歩行者、自転車専用道が設けられている。
この道は、旧国鉄北陸本線の線路跡地を利用したもので、上越市虫生岩戸から糸魚川市中宿まで全長約32kmの海沿いのルートである。線路跡地を利用したコースのため、トンネルや橋の一部には当時のままのレンガが使われており、その面影を感じることができる。
この日は、非常に強い陽ざしが照り付けて残暑厳しいが、何箇所もあるトンネルの中だけは少し涼しさを感じられて快適に歩くことができた。
長浜を過ぎてしばらくすると、やがて有間川漁港が見えてくる。国道沿いに日本海ヒスイライン(旧北陸本線)の有間川駅があるが、この先、鉄道は長いトンネルに入り、海岸沿いは国道と並行した自転車歩行者道のみとなる。このあたりからも振り向けばまだ米山が見えている。
名立(なだち)
久比岐自転車歩行者道をタンタンと歩いて行くと、やがて、道は名立集落に入ってゆく。ここには名立川が流れており、海沿いの山槐が途切れるので、ここまでトンネルの中を通ってきた鉄道や北陸自動車道などが顔を出す。
名立は漁業の町だが、かつては宿場であった。芭蕉はここでの紹介状(低耳のものと思われる)を持っていたが、使わずにさっさと三里先の能生まで進んでしまう。
筒石
名立を出ると再び海沿いの道が続く。この道を5kmほど進むと、漁業の町筒石集落に入る。このあたりは、鉄道の筒石駅がトンネルの中にあるというほど平地の少ない土地であり、集落は山の急斜面と海岸線の間の僅かな平地に密集している。400~500mに亘り一本の道路の両側に2~3階建の板貼りの民家がぎっしりと建ち並ぶという独特の街並みを形成している。自転車歩行者道は、集落の山側のやや高い位置を通っているので、その様子がよく眺められる。
筒石を過ぎ、藤崎、百川、小泊などの小集落を過ぎやがて能生町に入ってゆく。
途中、時代劇に出てくるような旅姿の三人連れに出会った。しばし立ち止まって話を聞くと、富山出身東京在住の学生寮の関係者で、富山の宣伝のため、幟を片手に東京から富山まで歩いて旅しているのだという。北陸新幹線開業後も金沢ばかりが目立つなか、富山を何とか盛り上げたいという地元の人たちの気持ちが伝わってくる。
能生
能生の街中に入る直前のトンネルを抜けると、すぐ左の小高いところに歴史民俗資料館、右に白山神社があるところに出る。今日一日、猛烈な暑さの中を歩いて来たので、漸くここまで来たことにホッとする。
歴史民族資料館の建物は、能生の山間地にあった民家を移築復元したものと言う。資料館前の水道で、思い切り顔を洗い、汗を流して一息ついた。
すぐ目の前の白山神社は、いかにも由緒ありそうな神社で、重厚な茅葺屋根の拝殿が目につくが、残念ながらたまたま屋根の葺き替え工事中であった。拝殿の背後にある本殿は国の重要文化財に指定されている。
芭蕉もこの白山神社に立寄って一句詠んでおり、その句碑が社務所の前に置かれている。
芭蕉が能生に着いたのは夕暮れ近くなっていた。宿は旧道沿いにあった仕出し屋の玉や五郎兵衛方だった。今日予約している宿は、その末裔が経営する玉屋という旅館で、白山神社からほど近いところにある。
しかし、ここで突然突風とともに激しい雨が降り始めた。あまりにも激しいため、しばし身動きできなくなってしまい、神社の手洗舎で雨宿りをさせてもらう。
なかなか雨はやみそうにないが、宿に入る前に、旧街道を少し戻って、弁天岩のある能生漁港の方に行ってみた。能生は日本海の魚介類が水揚げされる漁業の町であり、加賀藩参勤交代の宿場町でもあった。
傘を差しながら、何とか弁天岩をカメラに収め、ふたたび旧街道沿いの白山神社前を通って玉屋旅館に向かう。ところが、ここで風雨が一層激しくなり、とても歩ける状態ではなくなった。宿は、目と鼻の先にあるのは分かっているが、しばし民家の軒を借りて少し収まるのを待つ。
結局のところ、いくら待ってもおさまりそうもないため、やむなく、ずぶ濡れ覚悟で宿まで駆け込むことにした。
どうにかこうにか玉屋旅館にたどり着き、部屋に案内されると、予約の際、奥の細道を辿って歩いていると伝えていたためか、テーブルに芭蕉と能生について詳しく調べられた資料があらかじめ準備されていた。
シーズンオフでほかに客はなく、今日は貸切ですよ、といいながら愛想のいい女将さんが冷たい麦茶を薦めてくれる。びしょびしょになった服を浴衣に着替え、お風呂でさっぱりした後の食事は、うたい文句通り地魚をふんだんに使ったもので、能生ならではのもてなしは流石であった。
今日一日、猛烈な暑さだったうえ、あと一歩のところで猛烈な雨に見舞われて散々な目に遭ったが、最後は美味しい料理と地酒の「謙信」をいただき、大満足な一日となった。
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能生~青海
7月12日(陽暦8月26日)朝、芭蕉は能生を出立し、親不知・子不知を越えて、市振を目指した。
前日の荒天とはうって変わって、今日は朝から天気がよく、青空が広がっている。だが、天気予報は、温帯低気圧に変わっている台風の影響で、天候は不安定で所により雷を伴う激しい雨に注意、となっている。昨晩のようなこともあるので、一抹の不安を感じつつ宿を発つ。
今日は市振まで行って引き上げる予定だが、距離が長いうえ、天候急変のリスクもあるので、糸魚川までは電車で行き、そこから歩くことにした。
糸魚川
能生から糸魚川へは、電車で15分ほど。北陸新幹線開業に関係してか、駅周辺は真新しくきれいな感じである。
駅前の通りをまっすぐ海岸に向かうと、国道8号に突き当たるところに奴奈川姫(ぬながわひめ)の像が建っている。このあたりで産出するヒスイと出雲の国との関係を物語る伝説が残されている。
奴奈川姫像の前から少し戻ると、北国街道の旧道(県道222号)が国道と並行して残っている。ここからしばらくは、糸魚川独特の雁木通りが続くこの旧道を進む。
旧道に入ってすぐのところに加賀の井酒造の大きな建物がある。ここは慶安3年(1650)創業の新潟で最古の酒蔵という。加賀藩の参勤交代の際の本陣としても使用された。
*残念なことに、この年12月22日発生した糸魚川大火災にこの地域が巻き込まれ、加賀の井酒造も被災してしまった。
この本陣跡の少し先には赤いローソクの看板がひときわ目立つ京屋という古い構えの商家がある。約400年前から作られている御ゆべしを商う店で、加賀侯が将軍に献上したことから「御」の字が付けられている。
京屋の少し先、横町信号の交差点の手前の雁木通りの天井に、塩の道の案内板が掲げられていた。
この道はフォッサマグナ西端の糸魚川-静岡構造線におおむね沿って信州松本に達する道で、別名千国街道とも呼ばれる。この塩の道の出発点と北国街道が交差する辺りが新屋町で、芭蕉はそこの左五左衛門の茶店で休憩した。ここで曾良は茶店の主人から、加賀の大聖寺の僧への伝言を頼まれたことが、曾良日記に記されている。
塩の道を越えてさらにまっすぐ行くと、旧道は国道148号、8号と交差するが、そのまままっすぐ進み、姫川港に沿う形で道なりに進んで姫川橋を渡る。姫川は白馬連峰に端を発し、糸魚川で日本海に注ぐ1級河川で、この川の流域にはヒスイの産地があり、現在でも、河口付近の海岸線や河原でまれにヒスイを拾うことができるという。
姫川に近づくにつれ、温帯低気圧に変わった台風の影響で急に向かい風が強くなり、姫川橋を渡ったところでは小雨も混じりはじめた。ちょっと、いやな予感がし始める。
青海
姫川を越えると青海集落になる。青海集落は姫川と青海川の間にあり、この2つの川がヒスイをはじめとするたくさんの石を運んでくるため、青海海岸は岩石学習には最適だという。
青海集落を歩いていると急に雲行きが怪しくなってきたため先を急ぐが、あっという間に猛烈な風と激しい土砂降りの雨に見舞われてしまった。やむなく、近くの青海駅に緊急避難することにする。
途中、寺地遺跡がちらっと目に入ったが、今はそれどころではないので、とにかく駅まで急ぐ。
寺地遺跡は、縄文時代中期~晩期の集落跡で、ヒスイの玉作りの様子などをうかがうことができる遺跡である。
びしょびしょになって駅にたどり着き、暇そうにしている駅員さんにこの先の街道の様子などを訊くと、この先の旧道は国道に合流し、崖崩れや降雪を防ぐための洞門がたくさん設けられているが、歩行者は危険なので、市振まで行きたいなら、この際電車で行った方がよいと薦められる。大型トラックの通行も多く、カーブが多いうえ歩行者スペースがないので、特に洞門内は危険だそうだ。
次の電車まで小一時間あるが、駅前に一軒だけ年寄り夫婦がやっている食堂があるというので、ちょっと早めだが昼食を摂ることにする。
駅前通りに、「竹のからかい」と記された小さなモニュメントがちょこんと置かれていた。後日調べたら、江戸時代から続き300年以上の歴史を持つとされる「青海の竹のからかい」は、全国的にも大変珍しい小正月行事で、国指定重要無形民俗文化財にも認定されている。
食事をしている間に、ゲリラ豪雨はどうにか収まってくれたようだ。駅員さんからは、市振まで電車で行くよう勧められたが、ここまで来たらせめて親不知の天険には寄ってみたいので、結局、隣の親不知駅まで電車で行き、そこから歩くことにした。
歌集落
親不知駅のあるあたりは歌の集落である。青海の方から来た国道が、長い駒返トンネルを抜けたところにあり、山が海に迫る狭い平地帯に、北陸自動車道・国道8号・旧国道・JR北陸線がひしめく交通難所である。
青海から市振までの約15kmのうち親不知駅がある歌集落から東の青海までが子不知、西の市振までが親不知、合わせて親不知・子不知とも呼ばれる。
この区間は、北アルプス・飛騨山脈が日本海に落ち込む断崖となっており、昔は海辺のわずかなスペースを歩かなければならない街道一の難所であった。この海辺の道は悪天候の時は、断崖と険しい波のため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道である事から親不知、子不知と呼ばれるようになったといわれている。
親不知駅を出て小さな歌集落を抜けると、旧道はすぐに国道に合流する。この先には、道の駅親不知ピアパークや北陸自動車道の親不知インターチェンジなどがある。国道はしばらく海岸沿いを走るが、外波集落を過ぎると登り坂となる。昔の道は、そのまま海沿いを進んだが、今の国道は断崖の中腹を削り取って道を通している。
国道をかなり上ったところに、「天険断崖黎明」という標識が立つ親不知記念広場があり、見晴台がある。この見晴台から見ると、街道一の難所といわれた親知らずの様子が一望でき、いかに険しい所なのかがよくわかる。
親不知
見晴台から道は大きく山側に回りこみ、やがて天険トンネル入り口のところで、天下の剣と言われる親不知の断崖の上に出る。国道脇に「天険親不知」という大きな看板が立っており、少し奥には親不知観光ホテルが建っている。このホテルの裏側に明治16年に開通した天険道路と言われる900m程の道が残っていて、現在は日本の道100選、土木学会推奨土木遺産に選定された親不知コミュニティロードと呼ばれる遊歩道となっている。
ホテルの前を通って遊歩道を行くと、海側に東屋が立っている。
この東屋が、どれほどの断崖絶壁の上に建っているかは、先ほどの親不知記念広場からの写真で見ることができるが、海ははるか崖下にある。
東屋からは、交通の難所・天下の険と人との闘いの歴史、四世代にわたる道を一望できる。
眼下の波打ち際が親不知・子不知の由来となった第一世代の道、今歩いているこの遊歩道は旧国道の第二世代の道にあたる。現在の国道8号が三世代目で、北陸自動車道が四世代目である。
遊歩道の先に歩を進めると、道路の山側に巨大な一枚岩が現われ、そこには「如砥如矢」の文字が彫られている。
この道が完成したときにその喜びを岩に刻んで表したもので、砥石の如く滑らかで、矢のようにまっすぐで早い、という意味だという。切り立った崖の上をはって進むような恐ろしい道でも、波打ち際の第一世代の道に比べたら第二世代の道は滑らかに早く通れる画期的な道だったわけで、それだけ、第一世代の道が厳しい道だったということである。
能登半島を遠望しながら、しばらく遊歩道を進むとやがて天険トンネルを抜けた現国道に合流する。この合流地点は、親不知の難所を越えた所にあたり、まるで極楽浄土を旅するようだということで、「浄土」と呼ばれている。
今は、この先の国道も洞門が多く、歩行者にとってはすこぶる危険な道が3kmも続く。狭くてカーブが多い洞門内で、大型トラックが通るたびに立ち止まって避けることもしばしばで、本当にひやひやの連続であった。こんな危ない所を歩く者がいるなんて、大型トラックの運転手さんにとってはさぞ迷惑なことだったであろう。
長い洞門を抜けると目の前がパッと開け、そこからすぐ先で市振集落へ通じる旧国道が右に分かれてゆく。
洞門内を大型トラックがひっきりなしに行き交う第三世代の国道を歩く現代は、第一世代の道とは違って、ここまでたどり着いてようやくホッとできる。
市振(いちぶり)
旧国道を少し下ってゆくと、道が分岐するところにひときわ目立つ大きな「海道の松」が立っている。親不知・子不知の難所を命がけで通り抜けてきた旅人たちは、この大木を目にしてようやく安堵の表情を見せ、市振の宿に入ったという。
*非常に残念なことに、私がここを訪れたひと月後の10月5日夜、温帯低気圧に変わった台風18号に伴う強風により、樹齢200年超のこの松が根元から倒れてしまった。
海道の松の先には、いかにものどかな風情の市振宿の街並みが残っている。
市振は昔、旧北陸道の難所「親不知・子不知」の西にあたる宿場町として賑わっていた。今も、関所跡をはじめとする往時を偲ばせる遺物が数多く残っており、小さな町でありながら歴史を感じることができる。
市振宿東端の道路脇に弘法の井戸がある。通りがかりの坊さんに水を一杯所望された茶屋の婆さんが、十数町離れた赤崎のチベタ(冷水)を汲んでさしあげたところ、これを哀れんだ坊さんが杖で三度土を突くと、こんこんと水が湧いてきたという。
芭蕉のこの日の行程は、能生を出発し、親不知を通り、この市振までである。芭蕉にとって長い距離ではないが、『けふは 親しらす 子しらす 犬もとり 駒返し なと云 北国一の難所を越 つかれ侍れは・・・』と言っているように、行程のおよそ半分は親不知・子不知の難所を歩いた。
やっとの思いでその難所を越え、市振に辿り着いた芭蕉は、この宿場の桔梗屋という宿に泊まった。海道の松の少し先に桔梗屋跡の標識が立てられている。
奥の細道では、ここでの出来事として二人の遊女との出会いを記している。
『今日は親しらず・子知らず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越えて、つかれ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟というところの遊女なりし。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは故郷にかへす文をしたためて、はかなき言伝などしやる也。・・・・』
芭蕉は遊女たちの話を聞きながらいつしか寝入ってしまうが、翌朝この遊女たちにこれから先の旅の同道を求められた。しかし、芭蕉は『我々は所々にてとどまる方おほし』という理由で断っている。
この段の最後に芭蕉は、
- 一家に 遊女もねたり 萩と月 -
の句を残している。現国道脇に建つ長円寺境内に、この句碑が建っている。
少し先、市振小学校の校庭の一角に越後市振関所跡の石塔が建っている。徳川幕府は、北陸道に於ける越中との国境の要衝として高田城主 松平光長に命じて、ここに関所を設けた。市振小学校校庭の真ん中の榎は、関所敷地内にあったもので、「関所榎」として大事にされている。
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このあと、旧道が国道に合流したすぐ先に無人駅の市振駅はあった。
ここから日本海ヒスイライン(旧北陸本線)で糸魚川まで行き、北陸新幹線で帰路に就く。新幹線開通のおかげで、ずいぶんと便利になったものだ。
今回の旅は、台風の余波で一時激しい風雨に見舞われることもあったが、予てから一度は訪ねてみたいと思っていた親不知・子不知を越え、何とか無事に市振にたどり着くことができた。
親不知・子不知については、幼少のころから難所という話を聞いており、何となく近寄りがたいような雰囲気もあって、わざわざ訪れてみようと考えたこともなかった。奥の細道を辿る旅の流れで、今回初めて現地を実際歩いてみて、百聞は一見に如かず、まさに難所とはこういうことだとつくづく知るところとなった。
芭蕉は、深川を発ってから、まず歌枕の地を訪ねてはるばると奥州に向かい、平泉から立石寺に立ち寄った後、出羽三山を越えて日本海側に出てからは、暑さと湿気にたたられながら海沿いの道を延々と歩いて、ここ市振に至っている。
「おくのほそ道」では、鼠ヶ関から市振までの越後路の長い道中での出来事について、『病おこりて事をしるさず』と、まことにわずかなことしか記していない。そして、越中路を前にした市振の関の段では、遊女との出会いという、これまでとは少し趣の異なることを記している。
芭蕉の心の旅は、北国一の難所を越えて、ここから新たな境地に入って行く。