2019年9月23日 小松~那谷寺~山中温泉
2019年9月24日 山中温泉~大聖寺~吉崎~丸岡
旧暦7月27日(陽暦9月10日)、小松を発った芭蕉は、山中温泉で9日間保養した後、俳人の生駒万子に会うため小松に引き返した。「奥の細道」では、山中温泉へ向かう途次に那谷寺に立ち寄ったように記しているが、実際には山中温泉から小松に戻る途中に那谷寺を訪れている。
8月7日(陽暦9月20日)、あらためて小松を発った芭蕉は、前日、曽良も泊まった大聖寺の全昌寺に行き、翌日、大聖寺から吉崎を経て松岡に向かっている。
こうした中、山中温泉で曽良と分かれて以降の芭蕉の行程は、はっきりしない部分がある。
私の今回の旅は、小松から那谷寺、山中温泉、大聖寺、吉崎を巡って丸岡迄行く予定。
9月22日夜、新宿バスタから深夜高速バスで出立し、翌朝金沢に到着。もともとの予定では、金沢から電車で小松まで行って歩き始めるつもりでいたのだが、ちょうど台風17号が能登沖の日本海を北上中のため、安全を見て少し先の粟津から歩くことにした。この先も、様子を見ながら臨機応変にいくことにする。
-----------------------------------------------------------------------------
粟津~那谷寺
粟津駅前から国道305号に出て歩き出すと、さすがにかなり風が強い。大きなザックを背負っていることもあって、度々吹き飛ばされそうになりながら歩を進めることとなる。しばらく行くと、金沢~敦賀間延伸工事中の北陸新幹線が見えて来た。工事中の高架下を通ってすぐ先の二つ梨信号のあたりで那谷寺に向かう道に入り、あとは道なりに進んでゴルフ場の中を通って行くと、やがて那谷寺に至る。
<那谷寺>
那谷寺は、養老元年(717)、泰澄大師が岩窟に千手観音を安置したのが始まりと伝えられる古刹で、南北朝時代の戦乱で堂宇は灰燼に帰したが、加賀藩三代藩主前田利常が再興した。
山門をくぐると、歴史を感じる苔むした参道がまっすぐに延びていて、凛とした雰囲気に包まれる。
少し先、庭園の池の向こうに奇岩遊仙境と言われる巨大な岩壁が見える。
池に沿って進むと、小さな門の先に本殿への石段が続いている。大悲閣・唐門・本殿を総称して本殿と呼ばれ、重要文化財に指定されている。本殿には本尊の十一面千手観世音菩薩が安置され、いわや胎内くぐりができる。
ここから大池の脇を通り、三重塔、楓月橋へと進んで行くと、展望台から奇岩遊仙境が鳥瞰できる。
この奇岩遊仙境を目にした芭蕉はかの有名な句を詠んでいる。
- 石山の 石より白し 秋の風 -
展望台を下りて行くと、翁塚と並んでこの芭蕉句碑が置かれている。
芭蕉が『殊勝の土地也』と称え、句にも詠んだこの地は、「奥の細道の風景地」の一つに選ばれ、国指定名勝地になっている。
このあと、重要文化財の護摩堂、鐘楼を巡り、那谷寺を後にした。
-----------------------------------------------------------------------------
もともとの予定では、このあと山中温泉に向かうつもりでいたが、台風の影響などを考え、先に大聖寺に行き、そのあと山中温泉に行くことにした。大聖寺へは、まず動橋(いぶりばし)に行き、そこから電車で向かう。動橋は、小松から山中温泉へ行く道と大聖寺に行く道に分岐するところで、芭蕉もここを通っている。
那谷寺~動橋~大聖寺
動橋(いぶりばし)というのは何度聞いても覚えられないような難読地名だが、大聖寺藩の藩政期には北陸道の宿場町として賑わったところで、今も宿場町の面影がなんとなく感じられる。
動橋川を渡ってすぐの動橋東交差点のところに里程標が立っており、「大聖寺へ 弐里参町三十七間」「月津村宇月津へ 三十五町弐間」「動橋村字動橋」、側面に「熊坂縣境
参里弐拾四町」と刻まれている。
動橋駅で大聖寺に行く電車を待っていると、暴風の為しばらく不通になるとの放送が無人駅の待合室に鳴り響いた。なにせ、駅周辺には食事処も商店も何もなく、人気もない。やむなく、待合室で、念のため非常食用に確保していたおにぎりとカレーパンをほおばりながら、電車の回復を待つことにした。
幸い、小一時間たってようやく動き始め、どうにか大聖寺にたどり着くことができた。あとで地元の人に聞いたら、強風のときは手取川を渡るのが危険になるため、電車が不通になるのはよくあることだという。
大聖寺
大聖寺は、加賀百万石の支藩・大聖寺藩(初代藩主・前田利治)の城下町として栄えた街で、城主の影響を受けて茶道、能楽、生花等が庶民の間にも浸透し、今もどことなく落ち着いた雰囲気が漂っている。
<全昌寺>
駅からほど近い山ノ下寺院群と呼ばれる地域にはたくさんの寺院が建ち並び、そこに全昌寺がある。全昌寺は、前田家が支配する前の大聖寺城主山口玄藩の菩提寺で、山中温泉の泉屋の菩提寺でもあった。
8月5日(陽暦9月18日)、山中温泉で芭蕉と別れた曾良は大聖寺に向かい、全昌寺に泊まった。曽良が全昌寺を後にしたのは7日だが、芭蕉は同じ日に小松から大聖寺に向かい、曽良と入れ違いに全昌寺に到着した。曽良が旅立つ前に、
- よもすがら 秋風聞くや うらの山 –
という句を詠み残していたことを知った芭蕉は、『一夜のへだて千里に同じ』と、曽良との別れを偲んでいる。
翌日、全昌寺を発つ間際、芭蕉は若い僧に求められて即興の句を詠んだ。
- 庭掃(はき)て 出(いで)ばや寺に 散る柳 –
現在の全昌寺山門を入った庭の一角に、芭蕉と曾良のこれらの句碑が建っている。
山門の正面に本堂が建ち、本堂内の右手に芭蕉庵と名付けられた茶室があり、本堂内左手の厨子の中には芭蕉門下の杉山杉風作の芭蕉像が置かれている。また、本堂左手の五百羅漢堂がこの寺のもう一つの見どころである。
<大聖寺散策>
全昌寺から加賀神明宮のところまで行き、中町の方へ進んで行くと、時鐘堂の近くに深田久弥の生家が残されていた。大聖寺には、深田久弥山の文化館や全昌寺に彼の句碑があるなど、深田久弥の存在の大きさが感じさせられるものがいろいろあった。
川沿いの道を北に進んでゆくと大聖寺城址のある公園に突当り、すぐ先に大聖寺藩第三代藩主利直が築いた別邸の長流亭がある。柿葺の平屋だが当時の華やかさをしのばせるもので、国の重要文化財に指定されている。
長流亭の脇を通って行ったところに江沼神社がある。この神社の隣に大聖寺藩の藩邸があった。
江沼神社から大聖寺川に沿った道を上流方向に少し行くと、大聖寺川下りの乗船場があり、この街を一層風情あるものにしている。
ここからは川を離れ、古い街並みの中を巡りながら、次の目的地山中温泉に行くため大聖寺駅に向かった。
-----------------------------------------------------------------------------
大聖寺~山中温泉
大聖寺駅前から山中温泉へは路線バスがある、と思っていたのだが、よく見ると日祭日は運休となっていた。この日は月曜日だが祝日であった。隣の加賀温泉駅からは比較的多くの便が出ているというので、駅に行ったら、またまた暴風の為、電車が止まっていて回復にはかなりの時間がかかる見込みとのこと。歩いても行けるところだが、なるべく早く山中温泉に行って、陽が暮れる前に芭蕉ゆかりのところを巡りたいため、結局は山中温泉までタクシーで行くことにした。
山中温泉
山中温泉は大聖寺川上流の谷あいにあり、温泉街は大聖寺川の黒谷橋からこおろぎ橋にかけて、鶴仙渓(かくせんけい)と呼ばれる渓谷に沿って広がっている。
予約していたホテルにチェックインし、ザックをおいて早速散策に出た。
ホテル前の国道を少し行くと白山神社があり、その少し先には医王寺がある。
行基開創による寺で、朱塗りの多宝塔を持ち、山中温泉を守護する寺として薬師如来を祀っている。芭蕉と曾良も到着した次の日に早速お参りしている。
医王寺は山中温泉を見下ろす高台にある。
そこから急な階段を下りて温泉街に行くと、何やら賑やかな声が聞こえて来た。折しも、山中温泉最大のイベント「こいこい祭」の開催中で、大変な賑わいであった。細い路地に露天商が多数並び、結構、地元の若者や観光客の若者が大勢参加していて、おおいに盛り上がっていた。たまたま通りがかりで見た獅子舞も、なかなかなものだった。
ぶらぶらと歩いてゆくと、昔からの総湯(共同湯)・菊の湯のところにでた。山中座と菊の湯に挟まれたところが広場となっており、ここが祭の中心会場となっている。
芭蕉が山中温泉に着いたのは、秋風が吹き始めた7月27日(陽暦9月10日)のことだった。
今はないが、菊の湯からすぐのところに芭蕉の宿泊した泉屋があった。芭蕉はこの泉屋で9日間の長逗留をしている。泉屋の当主はまだ14歳の久米之助であったが、芭蕉はこの幼主に自らの桃青の一字をとって桃妖(とうよう)の号を与えた。桃妖は、後に北枝とともに加賀俳壇の発展に寄与した。また、金沢から同道している北枝は、山中温泉滞在中、芭蕉との俳諧談義を「山中問答」として残している。
芭蕉は山中温泉について、「奥の細道」で次のように記している。『温泉(いでゆ)に浴す。其効有馬に次ぐと云。
- 山中や 菊はたおらぬ 湯の匂 -』
一方、金沢から腹痛に悩まされていた曾良は、ここで芭蕉と別れ、叔父のいる伊勢長島でゆっくり養生したいと芭蕉に申し出た。芭蕉は「奥の細道」で次のように記している。『曾良は腹を病みて、伊勢の国長島と云ふところにゆかりあれば、先立ちて行くに、
- 行き行きて たふれ伏すとも 萩の原 - (曾良)
と書き置きたり。行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
- 今日よりや 書付(かきつけ)消さん 笠の露 -』
泉屋があったあたりに、今は芭蕉の館がある。芭蕉関連の資料や山中漆器などが展示されている。もとは泉屋に隣接していた扇屋の別荘だった建物らしい。入口には芭蕉と曾良の別離の場面を刻んだ石像が置かれていた。
芭蕉の館からすぐ近くのあやとり橋のところに行くと、鶴仙渓の川床に下りて行くことができる。
あやとり橋は独特のS字型をした橋で、その真下は鶴仙渓のなかでも最も深く蒼々とした道明が淵といわれる景勝地である。
道明と呼ぶ人物が淵に居着いた蛟竜(こうりゅう)を懲らしめたという伝説に由来するとのこと。芭蕉は滞在中何度かここを訪れており、「奥の細道の風景地」の一つに選ばれ、国指定名勝地になっている。そこには、文久元年(1861)銘の句碑が建っている。
- やまなかや きくはたをらじ ゆのにほひ -
あやとり橋から渓谷沿いの遊歩道を下流に少し行くと黒谷橋の下に出る。そこには、明治43年に芭蕉を慕う全国の俳人たちによって建てられた芭蕉堂が建っている。
今回、たまたまこおろぎ橋が工事中で通行できなくなっていたのが残念だったが、期せずして、こいこい祭の雰囲気を楽しむことができたのは運が良かった。
-----------------------------------------------------------------------------
山中温泉~加賀温泉~大聖寺~吉崎
翌朝、台風の影響による風は収まっているが、雨模様の天気である。この日は、吉崎を経て何とか丸岡城まで行ってみたいと思っている。元々の計画では、山中温泉から大聖寺までバスで行き、大聖寺を散策後歩いて吉崎に向かうつもりでいたのだが、いろいろ訊いているうちに、加賀温泉駅からCANBUSという周遊バスに乗ると吉崎を通るということが分かった。前日のこともあり、この先また何があるか分からないので、山中温泉から加賀温泉駅までバスで行き、加賀温泉駅からCANBUSで吉崎まで行くこととした。
このバスは、加賀温泉駅から大聖寺を経て、大聖寺川に沿って吉崎を通って海回りに周遊している。ガイドさんが一人ついているが、乗客は私一人で貸切状態。折角なのでガイドさんといろいろ話しながら吉崎に向かった。途中の大聖寺は、前日、主だったところをひととおり歩いて見て廻ったが、街はずれの大聖寺藩関所跡は見残していた。バスはその前を通るというので、せめて写真が撮れればと思っていたら、ご親切に少しスピードを落としてくれたので、うまく写真に収めることができた。
芭蕉が北枝を伴って大聖寺を発ったのは8月8日(陽暦9月21日)のことである。大聖寺川に沿って1里半ほどで加賀と越前の国境の吉崎に至る。
大聖寺川も海に近くなるにつれ、川幅が広くゆったりとした川になっている。吉崎の街中に入ったところでCANBUSを下りると、ちょうど雨が上がって陽が差し始めてきた。
吉崎
吉崎は、北潟湖と大聖寺川が日本海に流れ出す入江に面し、 かつて浄土真宗中興の祖・蓮如上人が比叡山延暦寺の衆徒の迫害から逃れて本拠を置いた吉崎御坊があった所である。
吉崎御坊は、その後、一向一揆の戦乱の中で消失し、今は、史跡公園になっている。御山の麓には、江戸時代に東西の本願寺によりそれぞれ別院が建てられており、細い階段を上ると蓮如上人の像が建つ御坊跡の広場に出る。
御坊跡のある御山からは、北潟湖と鹿島の森が見える。
御山を下りて鹿島の森を右に見ながら国道を進み、橋を渡ると浜坂になる。
芭蕉は、吉崎から汐越の松を尋ねるため、北潟湖対岸の浜坂へ舟で渡っている。しかし、尊敬する西行の歌、『終宵(よもすがら) 嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松』があるのでこれ以上何も詠むものはないということで、芭蕉はあえてここでは句を詠んでいない。
芭蕉はこのあと、金津、丸岡を経て永平寺に近い松岡に向かった。
汐越の松は、かつては北潟湖と白山を一望する景勝地にあったのだが、今は芦原ゴルフクラブのコース内にあり、記念碑と松の枯れ木が横たわっているだけという。私は、浜坂の方へは行かずに橋の手前で左に折れて、北潟湖沿いの細い道を南に向かった。
吉崎~金津
北潟湖東岸沿いの道を歩いて行くとやがて県道29号線に合流し、その先もずっと北潟湖に沿って南に向かって行く。この県道29号線は、金津に向かう旧北国街道の道筋である。
途中で、北潟湖西岸を行く国道から分かれて、北潟湖を渡ってくる道が合流してくる。
やがて嫁威(よめおどし)の道路標識が現れた。ここから少し先に小さな八幡神社があり、ここに嫁おどし谷の説明板が立っていた。今はまったく往時の面影はないが、かつては昼なお暗い藪陰の道だったという。
嫁威の交差点から先は、JR芦原温泉駅のある金津に向かって淡々と歩いた。
金津の總持寺は、芭蕉がここを通りかかったときに雨にあったためしばし雨宿りをしたといわれる。そこから金津神社の方に行くと芦原温泉駅に至る。
越前入りしてから敦賀までの芭蕉の詳しい道程はわからないが、金津の総持寺、丸岡の称念寺に芭蕉が立ち寄ったとの言い伝えがある。
芭蕉は丸岡城には立ち寄っていないようだが、折角なので私は今回の旅の締めに丸岡城に行くことにした。
金津~丸岡城
丸岡城はJR丸岡が最寄り駅になるが、丸岡駅からの交通の便はあまりなく、むしろ芦原温泉駅で丸岡城を経由する京福バスの永平寺・東尋坊線に乘るのが便利だ。ちなみに、永平寺に行くにも東尋坊に行くにも、このバスが便利のようである。
<丸岡城>
丸岡城は、天正4年(1576)、一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせた。現在は天守閣とその付近の石垣の一部分が残っているだけだが、この天守閣は現存するものでは日本最古の様式のものであり、国の重要文化財となっている。城は柴田勝豊が築いた後、しばらくして本多成重以下四代の居城となった。
外観は二層、内部は三層の望楼型天守閣で、石垣は野づら積みという古い方式でできている。急な石段を上って中に入ると、石落としや狭間といった敵に対する備えがしっかりしており、また上階へ上る階段が非常に急なため、階段にはロープが備え付けられているなど、戦国時代の実戦的な城の雰囲気が感じられる。
ここまでで今回の旅を終え、再びJR芦原温泉駅に戻って帰途に就いた。
-----------------------------------------------------------------------------
今回の旅では、台風の影響で、行く先々で予定していた行程を変更し、強風に影響されるところが多々あった。ただ、雨は降ったりやんだり、時には薄日が差すこともあって、それほど雨の影響を受けずに済んだのは運が良かった。結果的に、当初予定していた主だったところを、すべて巡ることができた。
山中温泉は芭蕉が長逗留したこともあって、芭蕉ゆかりの名所・旧跡などが様々な形で残っている。山中、山代、片山津、粟津といった名立たる温泉からなる加賀温泉郷のなかでも、山中温泉は、その点が大きな特色となって、賑わいを見せている。芭蕉がこの地を訪れて300年以上たっているが、あらためて芭蕉の存在の大きさをうかがい知ることになった。
今回の旅に出るにあたって、大聖寺関連の予備知識を得るためネットで検索をしたら、たまたま、「加賀ふるさと検定」のための「歴史文化学習帳」なるものに出会った。この学習帳は、この地を訪れる観光客のおもてなしのために、商工会議所が中心に加賀市や文化庁の支援を得て市民向けに作ったというものだが、その内容は実によくできているものであった。いかにこの地域の歴史・文化が、時の政権中枢からの影響を受け、逆に日本の歴史・文化に大きな影響を与えてきたのかがよくまとめられており、特に中世・近世の激動の歴史を正確に理解するのは難しいところだったが、この学習帳のおかげで、ある程度の知識を持って名所・旧跡を巡ることができた。それにしても、老若男女を問わず、おもてなしのために勉強しようという地域住民の方々の意気込みには頭がさがる。
奥の細道を辿る私の旅は、吉崎で越前加賀県境を越え、石川県から福井県に入った。福井は、これまでほとんどなじみがなかったところだが、戦国時代など数々の歴史の舞台となったところもあるので、この先の旅では奥の細道から多少外れる寄り道もしながら、じっくり福井の旅を楽しみたい。