2020年10月7日 丸岡~永平寺~松岡~福井
2020年10月8日 福井~一乗谷~福井~今庄
2020年10月9日 今庄~木の芽峠~敦賀
今回旅する越前地方は、時代を越えて様々な歴史物語が展開されており、史跡も多い。
折しもNHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、明智光秀や織田信長を中心に、戦国時代のこの地域が主要な舞台になっている。また、同時期にNHKBSで再放送中の大河ドラマ「太平記」では、足利尊氏や新田義貞を中心に、南北朝時代のこの地域が舞台となっている。
福井から今庄に行く途中の武生は、さらに時代を遡り、奈良時代に越前国府が置かれ、平安時代の紫式部ゆかりの地でもある。
芭蕉の奥の細道の旅から少し外れるところもあるが、山中温泉で曾良と別れて以降、越前入りしてからの芭蕉の道程は定かでないところもあるので、この際、奥の細道ルートにあまり拘らず、少し寄り道しながら旅を進めたいと思う。
前回の旅で金津から丸岡城まで足を延ばしていたが、今回はまず丸岡の称念寺に行き、そこから永平寺に行く。その後、松岡の天龍寺に向かい、松岡から福井に出て宿をとる。二日目は、一旦、奥の細道の旅から外れて一乗谷の朝倉氏遺跡に寄り道をし、再び福井に戻って、芭蕉の足跡をたどって歌枕の地を辿りながら今庄を目指す。三日目は今庄から木の芽峠を越えて敦賀まで行く予定である。
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2020年10月7日、朝5時過ぎに家を出て、丸岡に着いたのは10時半ころ。数日前から日本列島への台風接近の予報が出ているが、この日の越前地方は素晴らしい青空が広がる好天に恵まれた。このまま台風の影響がないことを願いつつ、久しぶりの歩き旅を再開した。
丸岡
まずは、丸岡駅から県道109号線を南下し、舟寄の先を少し行った称念寺を目指す。
<称念寺>
称念寺は時宗の寺で、美濃を追われて浪人中の明智光秀が、その門前に寺子屋を建てて暮らしていたといわれている。ときには住職と連歌や漢詩を詠んで過ごしたりしていたが、当時の光秀の暮らしは貧しく、ある時大事な客人をもてなすために妻煕子(ひろこ)が自分の髪を売ってお金を工面した、という話が夫婦愛の黒髪伝説となっている。
芭蕉はこうした光秀夫妻のことを次の句に詠んでいる。
- 月さびよ 明智が妻の 咄せむ -
ちなみに、後の細川ガラシヤが生まれたのもこの地であった。
今はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」の幟や看板などで明智光秀が目立っているが、この称念寺は、もともとは新田義貞の菩提寺として知られている。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は南北朝時代の戦乱の中、灯明寺畷の戦いで戦死したが、新田義貞が称念寺の住職と旧くより交友を深めていたため、その遺骸は時宗のお坊さんたちによってここに手厚く葬られたという。その後、様々な歴史を経てきた称念寺だが、源氏嫡流の新田義貞の墓所は徳川家の庇護もあって、しっかり守られてきている様子が感じられた。
丸岡~永平寺
金津を発った芭蕉は、鳴鹿山鹿で九頭竜川を渡り、そこから1里ほど西の松岡に行ってから永平寺に向かっている。
私は、称念寺を訪れた後、2kmほど離れた丸岡城近くの丸岡バスターミナルまで行き、そこからバスで永平寺に向かうことにした。松岡へは永平寺から向かう。
九頭竜川を越え、国道364号をしばらく行くと、永平寺に近づくにつれて土産物屋が増えてくる。バスを降りて左手の方に行くと土産物店がずらりと並ぶ門前町の賑わいに迎えられ、そこをまっすぐ進むと龍門を経て通用門に至る。
<永平寺>
永平寺は、寛元2年(1244)、道元禅師によって開かれた坐禅修行の道場である。四方を山に囲まれた深山幽谷の広大な境内に七堂伽藍を中心とした大小70あまりの殿堂楼閣が建ち並んでいる。このうち、仏殿、法堂、山門など19棟は、国の重要文化財に指定されている。
曹洞宗本山の永平寺は参拝者など訪れる人も多いが、そこでは多くの修行僧が早朝の起床にはじまり、勤行、坐禅、行鉢、作務など日夜厳しい修行に励んでいる。
杉並木を通っていくと永平寺見学の出入口となっている吉祥閣がある。建物内に入ると、境内の主な建物はすべて回廊でつながれており、その広くて長い回廊は、毎朝の作務でぴかぴかに磨き上げられている。
永平寺に芭蕉の足跡は全くないが、芭蕉は本文で、『五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。』と記している。
永平寺~松岡
私は、永平寺参拝後、越坂峠越えの旧道を歩き、松岡に向かった。
永平寺を出てもと来た道を下り、しばらく行って自動車道の高架が交差するけやき台のあたりで、越坂峠越えの旧道(県道165号線)に入る。国道158号に沿う形の道だが、人に出会うこともなく苔むした静かな峠道は、歴史を感じる道である。
峠を越えて少し下りになり、しばらく行って家並みが見えてくるあたりに、道元禅師入越慕古の道碑や石仏等が建っている。この道は道元禅師の通った歴史のある道であった。
少し先で県道113号線に出るので、北の方に向かってしばらく行くと松岡に至る。
松岡は福井藩の支藩松岡藩が置かれた城下町であった。
九頭竜川の水に恵まれたため酒造りが奨励され、かつては16軒もの酒蔵があったという。国道416号の少し手前、皆令寺を過ぎて右に入ったところに黒龍という古い大きな造り酒屋が見える。
その向かい側に天龍寺がある。
<天龍寺>
天龍寺は藩主松平家の菩提寺で、当時の住職・大夢和尚と江戸で親交があった芭蕉は、この和尚に会うためにこの寺を訪れている。
参道右側に筆塚と芭蕉翁と刻した翁塚が並んでおり、少し先の本堂近くに余波(なごり)の碑という芭蕉と北枝の別れの像が建っている。
山中温泉で曽良と分かれて以降、芭蕉に同行してきた北枝は、ここで芭蕉と別れることになる。北枝は、後に蕉門十哲の一人に加えられる程、俳人としても優れた資質を持っていた。別れに際して、芭蕉は次の句を北枝に贈った。
- 物書て 扇引きさく 余波(なごり)哉 –
松岡~福井
芭蕉は、『福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路、たどたどし、ここに等栽といふ古き隠士あり。』と、永平寺から福井までの3里の道をおぼつかない足取りで向かったと記している。なにしろ、150日に及ぶ長い旅を通して、芭蕉が一人だけで旅をしたのは唯一この日だけである。その芭蕉が向かった先は、江戸で旧知の仲だった福井俳壇の古老等栽の家であった。
私は、天龍寺を訪れた後、電車で福井まで出た。小さくてかわいらしい松岡駅でえちぜん鉄道の電車に乗ると、わずか一両の車両なのに制服姿の女性アテンダントが乗っていた。ちょうどいいので、この後訪れる福井市街の情報を尋ねてみたら、非常に丁寧に対応していただけた。ほんの束の間のことだったが、さりげなくもすこぶる印象の良いおもてなしの心を感じた。
この日は福井駅前の宿を予約しており、チェックイン後、早速等栽宅跡に向かった。
途中、北ノ庄城址へ立ち寄る。
<北の庄城址>
北の庄城址・柴田公園広場には、その一角に柴田神社があり、そこに柴田勝家の像が建てられている。そのすぐそばに、お市の方と三姉妹の銅像が建てられている。
柴田勝家は、織田信長の重臣となり越前一向一揆を平定後、越前の大部分を与えられた。だが、信長亡き後、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄にて妻のお市の方とともに自害した。
織田信長の妹お市の方は、政略結婚により近江の浅井長政に嫁ぎ、一男三女をもうけた。天正10年(1582)、三人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年、秀吉に滅ぼされる。勝家は娘とともに城を出るように諭したが、お市の方は三人の娘を秀吉の陣に送ったのち、北ノ庄城で勝家とともに自害した。
等栽宅は、北ノ庄城跡からすぐの足羽(あすわ)川に架かる幸橋を渡って行く。
<左内公園・等栽宅跡>
等栽(洞哉)の家は、定かではないが、この橋を渡って少し行った足羽山の麓、現在の左内公園のあたりにあったといわれている。等栽は、貧しい暮しをしており、芭蕉が訪れたときに枕がなく、お堂を建てていた近くの寺院で、ちょうどいい木片をもらってきて芭蕉の枕とした、という。ちなみに、左内公園は、安政の大獄で露と消えた幕末の福井藩士・橋本左内の墓所のあるところで、その銅像の左手奥に芭蕉宿泊の地・等栽宅跡碑と芭蕉句碑があり、その横には「洞哉と左内町」や「芭蕉と月の句」の解説板が置かれている。「芭蕉と月の句」には、芭蕉が越前で詠んだ芭蕉翁月一夜十五句が詠まれた場所の絵図と共に示されている。
等栽がどのような人物であったかはあまり知られていないが、芭蕉は等栽の家に2泊したのち、連れ立って敦賀へと向っている。芭蕉は、その道中も多くの月の句を詠んでいる。
日が沈んで街の明かりがともり始めているが、左内公園から駅の方に戻る途中、福井城跡に行ってみた。
<福井城址>
福井城は、初代福井藩主・結城秀康が慶長11年(1606)に築城し、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城。築城当時は高さ37m、四層五階の雄大な天守閣と四重・五重の堀をもっていたと言われるが、大火で焼失。現在は本丸石垣と内堀が残るのみで、城跡には福井県庁などが建ち並んでいる。
ライトアップされた姿が美しい御廊下橋は、かつては藩主が住居である御座所(現在の中央公園付近)から山里口御門を通って本丸に向かうときに渡ったと考えられている。2008年に復元整備されたもので、橋脚にはクリ材、上屋にはヒノキが使われ、上屋の内外の壁は漆喰塗り、という独特のつくりになっている。
その奥にある山里口御門(廊下橋御門、天守臺下門とも呼ばれる)は、2017年に復元整備され、瓦には足羽山一帯で採石された笏谷石(しゃくだにいし)が使われている。
すっかり日が落ちてしまったため、今日はここまでとし、ホテルに戻った。
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8月13日(陽暦9月26日)、芭蕉は、敦賀の気比の松原で中秋の名月を見ようと、等栽とともに旅立った。
私も、このあと今庄を経て敦賀に向かう予定だが、その前に今日は一乗谷の朝倉氏遺跡に寄り道をする。
一乗谷は福井市街からは南東約10km行ったところにある。たまたま、前日泊まったホテルでキャンペーン中ということで一乗谷遺跡周遊バスチケットを無料でいただいたので、さっそくこれを活用し、福井駅8時発のバスに乗ると8時半ころには復元街並に着いた。
一乗谷
一乗谷は、朝倉孝景が文明3年(1471)に築城し、五代103年にわたって越前支配の拠点としたところである。朝倉氏は、この地に足利義昭をはじめ、戦乱に荒れ果てた京都を逃れた有力者や文化人を迎えたこともあって、小京都と称されるほど栄えた。しかし、天正元年(1573)、天下統一を狙う織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き尽くされた。
朝倉氏滅亡後、越前を領した柴田勝家が北庄に拠点を移して以降、一乗谷は谷間の寒村となっていたが、昭和42年から発掘調査が行われたところ、当時の城下町の多くの建物の基礎部がほぼそのままに発掘された。現在は武家屋敷や館跡、庭園跡が復原・整備されている。京都の金閣寺や広島の厳島神社に並び国の三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)を受ける貴重な遺跡となっている。
遺跡は、一乗川をはさんで山側に朝倉館跡、川に沿った平地に復元された街並みと寺院と町屋群のあった平面復元地区が広がっている。復元街並は9時にならないと入れないので、まず先に朝倉館跡の方に行ってみた。
川を小さな橋で渡ると、正面に小さな唐風の門があり、その脇に「特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡」の石標が建っている。
門を入ってすぐのところに朝倉義景の館跡がある。この付近に10数棟の建物があった。これらはすべて礎石の上に角柱を立てた建物で、畳を敷き詰めた部屋も多かった。書院造りの成立過程を知る上で欠くことのできない貴重な遺構だという。
一乗谷には大小さまざまな庭園が遺されおり、それらの中で湯殿跡、諏訪館跡、義景館跡、南陽寺跡の4庭園が一乗谷朝倉氏庭園として平成3年、国の特別名勝に指定された。
この4庭園の中では湯殿跡庭園が最も古く、四代孝景の時代に造られた。他の三庭園は義景時代の作庭で、庭石組の形式もよく類似している。後世に改変されることもなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えているという。
朝倉館跡を一通り見学したあと山を下り、復原された街並みに向かった。いつの間にか、入口周辺には観光客が大勢集まっていた。南側の入場口から入ると一本の広い通りが続いている。この両側に200mにわたって当時の街並みが再現されている。
通りを少し行くと、道に沿って商人、職人などの町屋が続いている。復原武家屋敷という門を入ってみると、そこには右側に母屋が建ち、左手は井戸、納屋、厠などが並んでいる。
復元街並みを巡った後、北側の出口を出ると、眼前には寺院と町屋群のあった平面復元地区が広がっており、整備された遊歩道で巡ることができる。
平面復元地区を巡る遊歩道は、その先、下木戸跡、西山光照寺(石仏群)を経て、朝倉氏遺跡資料館まで行くことができる。
資料館の向かい側では一乗谷朝倉氏遺跡博物館(仮称)の大きな建物の建築中で、今後ますますこの地を訪れる人が増えることが予想される。
資料館前のバス停から福井に戻るバスに乗るので、それまでの時間一乗谷朝倉氏遺跡資料館を見学し、福井に戻った。
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一乗谷から福井に戻り、あらためて芭蕉の足跡をたどって敦賀に向かう。
福井~浅水(あそうず)
芭蕉は、福井を発ってから敦賀に至るまでのことを詳しく記していないが、その日は鯖江、武生を経て今庄まで行き、そこで宿をとったと見られている。
<玉江跡>
等栽の家があった左内公園あたりから県道229号線に並行する旧道を南に向かうと花堂(はなんどう)地区に出る。この近くに月の名所の玉江があったといわれ、芭蕉が本文で『玉江の蘆(あし)は穂に出にけり』と記した玉江はこの辺りだったという。
福井鉄道玉江駅のあたりでは県道の一筋西側に昔の北陸街道が走っており、狐川という小川に玉江二の橋が架かっている。そこに親鸞聖人の片葉の葦の伝説を刻んだ碑と、玉江跡として芭蕉の句を刻んだ碑が並んで置かれている。
- 月見せよ 玉江の芦を 刈らぬ先 - (芭蕉翁月一夜十五句)
このあと、ショッピングシティ・ベル西側の道を南に向かっていく。しばらくして江端川に架かる玉江橋を渡ると、右手の日吉神社の境内に防水記念碑と玉江の郷の碑が立っている。往時はこの境内のすぐ西側で浅水川と江端川が合流し、川は大きく蛇行していた。
玉江橋からしばらく行った八幡神社を過ぎて、少し先の左側駐車場の角に荒井一里塚跡の碑が立っている。そこからしばらく行った交差点に立つ『河川改修
圃場整備 今市灌排 記念碑』は、ここら辺りまで大きく蛇行していた朝六ツ川を改修し、耕地整理を行ったことを記念する碑である。玉江橋のあたりからこの辺りまで、朝六ツ川と地域住民との深い関わりが見られる。
記念碑から先は浅水(あそうず)宿になり、街道沿いには大きな屋敷が徐々にみられるようになって、旧街道の落ち着いた雰囲気が感じられるようになる。そうこうするうち、右手に並ぶ六地蔵の前を通ると、すぐ先右手に朝六ツ川が接近してくる。
このあたりからは、風格のある大きな屋敷が次々に現れる。大きな切妻破風を持つ伝統的な建物で、立派な庭を伴った堂々たる風格である。
また、この辺りからは、道の両側にお寺や神社が多く見られるようになる。その先で道が大きく左に曲がったところに本陣跡碑が立っている。かつては、このあたりが浅水宿の中心だったようで、北国街道と美濃街道との分岐点として賑わったところである。
本陣跡の碑から目と鼻の先に大きく蛇行してくる朝六ツ川に架かるあさむつ橋に至る。
<あさむつ橋>
朝六つ橋は、清少納言が枕草子で「橋はあさむつ橋」をあげ、藤原定家、松尾芭蕉の歌句にも詠まれた名所である。
しかし、現在のあさむつ橋周辺は、手前までの旧街道の面影残る落ち着いた街並みから一転し、大きな道路が交差する変則的な交差点となっていて、かつての歌枕の趣は全く感じられなくなっている。
橋の袂には、あさむつ橋の由来を刻んだ碑、西行の歌碑、芭蕉の句碑などが置かれている。
芭蕉は次の句を詠んでいる。
- 朝六つや 月見の旅の 明けはなれ -
浅水~武生
あさむつ橋を渡った先の旧街道沿いは、再び静かな旧街道の趣が残る道が続いているが、先を急ぐため、このあと近くの浅水駅まで歩き、武生までは福井鉄道の電車で向かった。
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武生(たけふ)
現在越前市となっている武生は、奈良時代に越前国府が置かれ、中世には府中と呼ばれるなど越前地方の政治、経済、文化の中心地として栄えた。
江戸時代には、府中城に入った福井藩家老本多富正により城下町が建設され、現在の武生市街の骨格が形成された。街の中央を南北に北陸道が走り、東側は本多氏の居館と侍屋敷、西側は寺社、南北及び街道沿いには商家・町屋が配置されている。
今も古い街並や伝統的な商家建物は旧武生市街の中心地の、蓬莱町・元町・京町・若松町・住吉町などに点在している。特に、武生は越前打刃物の生産が有名で、街道筋には今も打刃物の店がいくつも見られる。全盛期の江戸時代中期から明治初期まで、原料の鉄は北前船によって福井の湊から武生に運ばれ、その海路を通じて打刃物製品が各地に運ばれた。
旧市街を通り、しばらく行ったら、街道を少し外れて紫式部公園に寄り道をした。
武生は、平安時代、紫式部が越前の国守に任じられた父藤原為時とともにやってきて一年余り暮らした地である。紫式部は、武生郊外の日野山に雪が積もる様子を眺め、「ここにかく
ひのの杉むら うづむ雪 をしほの松に けふやまがへる」と詠んだ。また、源氏物語の浮舟の帖には、『たとへ武生の国府にうつろひ給ふとも』と、武生の名が登場している。
<紫式部公園>
紫式部公園では、総檜造りの釣殿や池に架かる朱塗りの橋など、平安時代の雰囲気がたっぷりの庭園を散歩できる。
公園内には金色の紫式部像が建ち、12単衣をまとった紫式部像は東の方を向いていて、その目線の先には越前富士と呼ばれる日野山が見える。
また、園内には紫式部の歌碑がいくつかある。
- 春なれど しらねのみゆき おやつもり とくべきほどの いつとなきかな -
- 身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思いひみだる -
このあと王子保駅まで行き、今庄まではJR北陸本線の電車で向かった。
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今庄
今庄に着いた時にはすでに日が沈みかけているが、予約している宿に入る前に旧街道の宿の様子を見ておくことにする。
駅の中にあった観光案内所でいただいた今庄宿案内を見ながら、まずは宿入り口の矩折(かねおり)のところまで行き、宿場を歩き始めた。
この地域は、古くから幾重にも重なる南条山地を越える北陸随一の難所で、京から山中、木の芽、栃ノ木のいずれの峠越え道を選んでも、最初に投宿するのは今庄宿であり、また、越前から京・江戸へ向かう人々が、明日への準備のために休泊したのも今庄宿であった。そのため、今庄は江戸時代を通じて、宿場として越前でもっとも繁栄したところである。
<街並み>
今でも昔風の家屋が軒を連ねる街並みは、その長さや道の形や短冊形の屋敷割がほとんど変わっていないこともあって、往時の宿場の面影を色濃く残している。
京藤(きょうとう)甚五郎家は、天保年間(1830~44)頃の建物で、当時は造り酒屋であった。酒造業を営みつつ、脇本陣にも指定された今庄宿有数の旧家で、福井県内最古級の町屋でもある。
今庄宿には、幕末には55軒もの旅籠屋があったそうで、若狭屋は、その中でも大きな旅籠屋で、現在はまちづくりの拠点として活用されている。
また、今庄には古い酒屋さんが今も多く残されており、堀口酒蔵、北善酒造、白駒酒造、畠山酒造、といった建物が宿場の風情を一層醸し出している。
今庄宿の京側出入口である上木戸跡を過ぎると、やがて北国街道と北陸道の追分に至る。
<文政の道しるべ>
今庄宿の町はずれの追分には文政13年(1830)に笏谷石(しゃくたにいし)で建てられ大きな道しるべが建っている。
「右京 つるが わかさ 道」、「左京 いせ 江戸 道」と刻まれ、右が北陸道、左が北国街道という追分の道しるべである。
ざっとではあるが、今庄宿を一通り見て廻り、予約している宿に入った。
この日の宿は今庄駅から近い今庄会館ふれあいサイクリングターミナルというところ。往時の今庄には旅籠が多数あったが、現在の今庄にはほとんど選択の余地はなかった。
しかし、ひと風呂を浴びてほどなく案内された夕食は、品数の多い料理の中に大変珍しい魚があった。見た目だけでは何なのかわからなかったが、もしかするとヤガラではないかと思い、念のため賄いのおばさんに聞いてみたら、そうだという。珍しい魚につい嬉しくなってお酒が進み、賄いのおばさんとも会話がはずんで、予期せぬ大満足のもてなしを受けることとなった。
また翌朝は、新保から敦賀市街に行くコミュニティバスの予約の件などで、宿を発つまで本当にお世話になりました。
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今回の私の旅も3日目となった。
早朝、宿の前に出てみたら、すぐ近くに真新しい芭蕉句碑があった。
- 義仲の 寝覚めの山か 月悲し -
今庄の燧が城(ひうちがじょう)で平家と対峙したとき、味方の裏切りによって敗れた木曽義仲の無念さを偲んで詠んだもので、燧が城址は今庄宿の新羅神社近くの観音堂のところから路地を入って行ったところにある。
芭蕉は、今庄宿に1泊した後、等栽とともに敦賀に向かった。今庄から敦賀まで芭蕉は木の芽峠の旧道を歩いている。
私も、今日は今庄から木の芽峠を越えて敦賀に行く予定である。木の芽峠へは、文政の道しるべのところで右に行き二ツ屋宿を経ていくルートと、左に行き板取宿を経ていくルートがあるが、私は芭蕉と同じく二ツ屋を通るルートで行くことにする。
今庄~木の芽峠
木の芽峠は、平安初期に近畿と北陸を結ぶ官道として整備された北陸道が通っている峠である。
文政の道しるべのところから右に向かい、南今庄を経てしばらくは鹿蒜(かひる)川に沿うように進む。やがて、二ツ屋への分岐に「万葉・北陸道 追分の里
北陸道の追分-上新道集落」と書かれた解説板が立っていた。それによれば、「奈良時代都から越の国に入る旅人は松原駅(敦賀)から陸路か海路で五幡や杉津を通り、山中峠(389m)を越え、上新道集落を通り鹿蒜駅(南今庄付近)に出た。平安時代に木ノ芽峠越えの道が開かれ、その後はそちらが北陸道の主道になった。新道の名はこれに由来しこの地は2つの峠越えの追分口、前の道は北陸本線の跡地を県道として整備したもので古代道は集落内を通る。」とある。その少し先の上新道の追分のところに二ツ屋方向を示す小さな看板が電信柱につけられていた。ここから左に入り、二ツ屋川に沿う緩やかな坂を上って二ツ屋に向かう。
<二ツ屋宿>
少し行った集落の入り口あたりに二ツ屋住居案内板や北陸道の案内板が置かれている。案内板によれば、山中峠越えは楽だが時間的ロスが多く木の芽峠がさかんに利用されるようになり、ここ二ツ屋も宿場町として大いに栄えたとある。(当時の宿場は今よりも2km上流にあった)
この北陸道を通った人には、紀貫之、藤原為時、紫式部、道元、源義経、蓮如上人、新田義貞、足利尊氏、豊臣秀吉、松尾芭蕉、水戸天狗党一行、明治天皇、岩倉具視らがいる。
今は典型的な鄙びた山村となっている。
峠への坂道を上って二ツ屋の集落を過ぎると、周りは森林の風景になり、二ツ屋一里塚跡碑、馬捨て場跡、血取り場跡、制札場跡、明治天皇行在所の石碑や関所、問屋場跡などを示す標柱などが随所にみられる。
やがてスキー場のリフトが見えてくるが、道はその左側の急斜面を上っていくことになる。この斜面の道は結構しんどい。やっと上りきると、林道を横切った正面に<木の芽峠>の方向を示す看板とお地蔵さんの横に笠取峠の説明板が立っている。
正面のこの道が歴史ある旧道だと思われるが、草に覆われた道は靴が隠れるほどずぶずぶにぬかるんでおり、残念ながらあきらめて木の芽峠には林道を行くことにした。林道は少し下りになり、しばらくすると、板取宿からくる道が左側から合流してくる。そこから少し行くと、右手の崖上に向かって上っていく言奈地蔵の案内板があった。
引き続き林道をそのまま進むと、やがて大きな案内図(木の芽城砦群図)とかなり古くなったトイレ施設があり、崖上に茅葺の家が見えた。その少し先に崖上に行く細い上り坂があったので、これを上ってゆくと旧道に出て、そこに木の芽峠の碑があり、すぐ先に木の芽峠茶屋が見えた。旧道はいかにも風情のある石畳で、何百年も昔から多くの人々が通った歴史のある道なのである。
木の芽茶屋
峠の頂上に建つ茅葺の家は、文正元年(1466)から代々峠の茶屋番兼関所役を勤めている前川家で、現在も当主がここで生活をし、峠を守っている。
前川家は、秀吉が前川家に陣小屋と金の茶釜を与えたのがはじまりといわれている。通行人の休憩所だけでなく、監視や吟味をし、関所の補助的機能を果たしていた。
茶屋の向いには永平寺を創始した道元禅師がこの峠で詠んだ歌碑など建っている。師は病気療養のため、この木ノ芽峠を越えて京都へ向かった。
木の芽峠~新保
ここからは木の芽峠の古道を歩くかどうか迷ったが、古道について情報不足でもあり、草に覆われてずぶずぶにぬかるんでいた旧道入口の印象が強くて、結局、先ほどまで歩いてきた林道で行くことにした。
国土地理院地図で見ると、旧道は新保までほぼ直線的に向かっているが、林道は時計回りに大きく遠回りし国道の木の芽峠トンネルと北陸本線の北陸トンネルの上を通る巻道となっている。
淡々と歩いているうちに、やがて木の芽トンネルを抜けてきた国道476号が見えてきて、少し先で旧道と合流し新保集落に向かう。
新保
新保宿は木の芽峠から下った急坂の街道沿いの両側に階段状の集落が建ち並んだ50戸ほどの村であった。
水戸天狗党一行は中山道美濃鵜沼宿付近まで到達したところで大軍に行く先を阻まれ、やむなく北陸道から京を目指そうとして、蝿烏帽子峠を越え、越前大野郡に入り、敦賀に向かうことにした。
時は最早12月、寒気は厳しく雪深い峠を越えるのは至難を極め、苦しい行軍を余儀なくされた天狗党が、やっと新保宿に達したのは元治元年(1864)12月11日のことであった。
天狗党は、この宿場の問屋兼本陣であった塚谷家を本陣にした。この本陣は、今も「武田耕雲斎逗留の陣屋」として正門と本屋が残されている。
新保~敦賀
新保から敦賀までは12kmくらいある。
事前に調べていたところ、新保から敦賀市街に行けるコミュニティバスがあるので、今朝、宿を出るときに予約していた。
その待ち合わせのバス停で待っていると、やがて一台のタクシーが現れた。バスがなかなか来ないのでどうしたのかなと思っていたのだが、なんとこのタクシーがバスの代わりということであった。結局、わずか200円のバス代で敦賀の街に出ることができた。
敦賀では、まずは気比神宮を訪れ、次に金ケ崎宮周辺を散策した後、気比の松原の方に行き松原神社や天狗党墓所を訪れてから帰途に就く予定である。それほど広範囲に移動するわけではないが、時間の節約のため、「ぐるっと敦賀周遊バス」を活用して巡ることにした。ちなみに、この周遊バスには都合3回乗ったのだが、毎回運転手さんは同じ人で、いずれも乗客は私一人だけだったため、いろいろな話をしてすっかり仲良くなり、時間の余裕がない中での効率的な移動のアドバイスをいただいたりして大助かりだった。
8月14日(陽暦9月27日)夕暮れ、敦賀に着いた芭蕉は旅籠出雲屋に宿をとった。
芭蕉が到着した夜は、月がことのほかきれいだった。「あすの夜もこのように晴れるでしょうか」と尋ねると、宿の主人は「北陸の天気は変わりやすい、明日はわかりません」と応え、勧められるまま酒を一杯飲んで、月を眺めながら気比神宮に夜参りに出かけた。
翌日の中秋(8月15日)は、宿の主人の言ったとおり、あいにくの雨となった。気比の松原での月見を楽しみにしていた芭蕉は、肝心の日に月を見ることのできなかった残念さを次の句に残した。
- 名月や 北国日和 定めなき -
<気比(けひ)神宮>
気比神宮は大宝2年(702)創建という古社で、元亀元年(1570)朝倉氏と織田信長の抗争による戦乱で灰燼に帰したが、慶長19年(1614)、福井藩初代藩主結城秀康が社殿を再建した。昭和20年の戦災で焼失したが、昭和60年以後に本殿を改修し、幣殿、拝殿などが設けられた。現在も敦賀市民に「けいさん」の愛称で親しまれている。境内には芭蕉の像と句碑が建てられている。
また、高さ約11mの大鳥居(重要文化財)は春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つ。
大鳥居の前を走る国道8号の交差点の脇には、お砂持ち神事の像が建てられている。これは、時宗二代遊行上人が海岸から砂を運んで気比神宮の参道を修復した、という故事にもとづく像である。
この故事を主人から聞いた芭蕉は、自分がいる場所が遊行上人の運んだ土の上であることに感動し、次の句を詠んだ。
- 月清し 遊行のもてる 砂の上 -
<金ヶ崎城跡とその周辺>
敦賀市街の北東部に敦賀湾を一望できる小高い山がある。戦国の世、この地にあった金ヶ崎城・天筒山城を舞台に、数多くの歴史的事件が繰り広げられた。
南北朝時代の延元元年(1336)、足利勢に追われた新田義貞は恒良親王・尊良親王を奉じて北陸へ逃れ、金ヶ崎城に籠った。援軍を得られなかった義貞軍は兵糧も尽き、籠城から半年後、尊良親王、新田義顕(義貞の嫡男)が自刃して落城。恒良親王は逃れる途中に捕まり京へ送られた。義貞は落城寸前に金ヶ崎城を脱して杣山城へと逃れた。
中腹の金崎宮には、その両親王が祀られている。
足利軍との戦いに敗れた新田義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海士に探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、竜頭が海底の泥に埋まって引き上げることが出来なかった。芭蕉は、宿の主人からこの話を聞いて、次の句を詠んだ。
- 月いつこ 鐘は沈る うみのそこ -
現在、金崎宮への登り口に建つ金前寺境内の鐘塚にこの句は刻まれている。
また、戦国時代の元亀元年(1570)4月、義昭の上洛命令に応じなかった朝倉義景を追討するため、信長は敦賀に侵入し、一気に天筒山城を陥落させた。
信長は天筒山城を攻略した翌日にも、天筒山城と尾根続きにある金ケ崎城に攻め込むはずだったが、金ケ崎城にこもる朝倉勢は早々に撤退したところに、妹婿の浅井長政が信長に反旗を翻したとの知らせが信長のもとに届いた。挟撃される絶体絶命のピンチに陥った信長は総退却を決め、わずかな兵を引き連れて命からがら京へと逃げ帰った。これが、「金ケ崎の退き口」と呼ばれる退却戦である。このときしんがりを務め活躍したのが、秀吉と池田勝正、そして光秀だったとされている。
目下のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」とNHKBSで再放送中の大河ドラマ「太平記」では、まさにこうした歴史物語がここを舞台に繰り広げられているので、史跡を巡っていても殊の外リアルに感じることができた。
このあと、「ぐるっと敦賀周遊バス」で今回の旅の最後の目的地である気比の松原に向かった。
<気比の松原>
三保の松原(静岡県)・虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つというだけあって、さすがに素晴らしい。特に、穏やかな敦賀湾の海と美しい松の木とのコラボレーションは、三保の松原・虹の松原とは違った見事な景観である。
<天狗党所縁の地>
気比の松原の周辺には水戸天狗党所縁の地が点在している。島崎藤村の「夜明け前」の中でも語られ、中山道を歩いていて随所で天狗党の足跡に出会って以来、いつかその終焉の地を訪ねたいとかねてから思っていた。
松原公園から歩いてすぐのところに、国史跡の「武田耕雲斎等の墓」がある。この地で斬首された浪士と行軍途中に亡くなった人を含む411名がここに埋葬されている。墓所の前には燐とした姿の武田耕雲斎之像が立っている。
元治元年(1864)11月、武田耕雲斎率いる千余人の天狗党は朝廷に尊皇攘夷の志を訴えようと京都の一橋慶喜を頼って行軍を始めたが、木ノ芽峠を越えて新保に至ったところで、その行く手に加賀藩他諸藩からなる大勢力が陣を敷き、その総大将が一橋慶喜であることを知るに及んでついに降伏を決めた。
降伏当初はひとまず寺に収容された一行800余名は、年が明けると肥料用のニシン倉という劣悪な環境に監禁され、翌2月に耕雲斎ら352名は斬首、他は流罪や追放という厳しい処分が行われた。墓所から少し東に行った来迎寺はその処刑の場所となったところになる。
墓所と道を挟んだところにある松原神社は、明治になって墓所に葬られた411柱を祀って建てられた。その境内にはニシン倉が記念館として残されている。
幕末・維新の混迷の中では日本各地で様々な出来事が起こったが、水戸藩においては藩内の抗争もあいまって、天狗党を巡る惨劇はその中でも他に類を見ないものであった。天狗党ゆかりのこの地を訪れると、穏やかで風光明媚な気比の松原周辺で、ここだけは空気が異なる異空間のようで、時を超えて関わってきた多くの人たちの深い思いがひしひしと感じられた。
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気比の松原とその周辺を訪れたところで今回の私の旅はここまでとし、敦賀を後にして帰途に就いた。
芭蕉がこの地を訪れたのは元禄2年(1689)8月14日(陽暦9月27日)のこと。気比の松原での中秋の名月を楽しみにしていた芭蕉は、8月15日は雨となったものの、前日の14日のうちに素晴らしい月を楽しんでいる。時は流れ、それから330年ほど経った現在の松原の風情も、さぞや芭蕉が訪れた時と変わらぬ穏やかなものなのであろう。
芭蕉は、8月16日には、敦賀の豪商・天屋五郎右衛門と舟で西行ゆかりの色の浜に向かった。舟に食べ物や酒を積み込み、多くの下僕を従えて賑やかな舟旅を楽しんでいる。
私の奥の細道を辿る旅は、一年ほど前にゴールの大垣まであと少しというところまで来ていた。年が明けて春先の陽気のいい時期になったら、大垣までの残り区間を歩くつもりで準備していたのだが、突然のコロナ禍で不要不急の旅など控えざるを得なくなってしまった。そんな中、このところやや状況が落ち着いてきたこともあり、コロナに万全の注意をしながら、今回ようやく旅を再開することにした。
久しぶりの旅に出る矢先、台風接近で天候が気になっていたが、幸い越前地方に影響はほとんどなく、無事に予定している旅ができた。結果的には、行く先々でキンモクセイの香りが漂い、気分良く旅ができたことは幸いであった。
次回は敦賀から大垣までいよいよ奥の細道の旅もゴールを迎えることになる。コロナ禍の様子次第だが、そうした心配をすることなく旅ができる日が早く来ることを待ちたい。